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今週の木曜日。

近くの席の人たちと軽くおしゃべりをしていた。
どういう経緯でそういう話になったかは覚えていない。
子どもの頃の兄弟達とのやりとり話だったか。

隣の人が妹とよく喧嘩していたとか何とか。

「あー私も弟を叩いたり、口げんかしたりしてました。」



一瞬にして過去の記憶がフラッシュバックした。



私には5歳下の弟がいる。可愛くて仕方がない。


でもそれは今の話。


子どもの頃は、本当にひどかった。

叩いたり、蹴ったり、ひっかいたり、噛み付いたこともあった。

散々馬鹿にしたし、私の言うとおりにコントロールしようとしてた。

母親や世の中を通して自分の中に身に付けた、「こうすべき」 「こうあるべき」を徹底的に弟にぶつけていたように思う。

遊びたいのに弟の面倒を見なければならなくて、そのせいで遊ぶのを我慢したり、弟を連れて行ったりしないといけなかったことも多く、でも母親に抗議も反抗もできず、その怒りや苛立ちを弟にそのまんまぶつけていたのかもしれない。

私は弟を叩くことで、泣かすことで、馬鹿にすることで、スッキリしていたのは事実だ。


その時の、部分部分ではあるが、弟に攻撃して泣かしている自分を思い出した。


何てひどいことをしたんだろうか。

どんなに、痛かったんだろう。

一体、どれだけ弟を傷つけてきたんだろう。

自分のストレスをどれだけ小さなあの子にぶつけただろう。


弟をいじめて、泣かせる度に感じてたのに、気がつかない振りをしてきた罪悪感。

ずっと、そこから目を背けて、自分を正当化してきた。

そして、それこそ自分は被害者だと言わんばかりで自分の辛さ、淋しさ、悲しさ、怒りを訴えてきた。


だけど。


私も十分に加害者だった。


私は、ずるい。

私は、弱くて、おろかで、傲慢で、卑怯だった。


弟以外にも沢山の、色々な人を、大切な人を傷つけてきた。


友達に意地悪した。

友達を傷つけた。

友達に酷いことを言った。

友達を独り占めしたくて、間違った行動をとったりもした。


結果的に、嫌われたり、一人ぼっちになったりした。

当然の結果だった。


だけど私は自分のしたことよりも、自分が嫌われたこと、一人ぼっちになってしまったことを嘆き、自分を哀れんだ。

でも、自分がしたことが心の中から消えたわけじゃなかった。

心の奥では罪悪感がどんどん積み重なっていった。
でも、見ない振りをした。


私は昔から人付き合いの距離のとり方が下手で、今も人付き合いで相手の反応ひとつであれこれ思い悩んで、神経をすり減らす。

幼稚園~中学生にかけての友達関係のつまづき、失敗が原因だということはずっと分かっていた。

だけど、その時を思い出して「あれは私が悪かったから・・・。」なんて分かったような風にしてたけど、本当のところ何も分かっていなかった。


どれだけ相手を傷つけていたか。

どれだけ自分をごまかしているか。

どれだけ罪悪感を積み重ねているか。


だから、ずっと苦しかったんだ。


自分の罪を認めないから。

自分のどうしようもない弱さを、ずるさを、汚さを認めないから。

どれだけ愚かで、いかに卑怯であるかを見ようとしないから。


明るくいようとしても、本当はそんな人間じゃない。

笑っていようとしても、笑う資格なんてない。

幸せを願っても、幸せになってはいけない。


そうやって、自分を認めず、許さず、裁き続けてきたんだ。


泣きそうになるのを抑え切れなくて、席をたった。

家に帰っても、頭がガンガンするくらいに泣いた。


泣いて心で詫びてどうにかしようとする自分が嫌だった。

自分の愚かさが嫌だった。

自分の弱さが情けなかった。

被害者ぶってて、とんでもない加害者だった自分が恥ずかしくて仕方がなかった。


でも、それでも・・・。


どんだけ嫌でも、どんだけ目を背けたくても、


それが私だった。







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自分の中に溜め込んでいたエネルギーがボロボロ出てくる。→

でも一方で仕事での照会電話だったり、人とのやりとりだったりで、
今までイラッとしたり腹を立ててたりしていたことに対して、

そういった感情をあまり抱かなくなってきた。

瞬間的に腹が立ったり、イライラしても、すぐに戻れる。
長引いても、その場を離れるなりして冷静に対処できる。


日々の出来事なんてのは別にどうってこともなくて、ただただ、自分の怒りや苛立ちといった溜め込んだエネルギーを、何とか心の奥から出そうとするためのきっかけに過ぎなかったんだなと思う。


そんな感じで、日々の生活はもう凪のようにおだやかで、

自分が抱えていたものも随分と整理できてきている。


でも、何と言うか。


まだもうひと塊ある。

そして、それが何なのか、本当は殆んど分かっている。


だけどどうもそこに踏み込みたくないらしい。

思考が止まる。

恐らくキーとなるだろう記憶を思い出そうとすると、止まる。
その記憶の事実は思い出せるけど、その時の思考や感情が出てこない。


嫌らしい。
私としてはさっさともうすっきりさっぱりしたいのだけど。


でもそこを無理矢理こじあけても、いいことにならないので、
何となくボーっとしながらとりとめもなく考えたり、ノートに書いたり。


そんな中で、ふと思ったこと。


私って、本当はかなり「静」の人間なんじゃないだろうか。

色々とあったおかげで、空気を細部まで読むスキル、ある出来事を面白くしゃべるスキルを身に付けた。

何より本人が、「しゃべらないと。」 「面白い話をして場を和ませないと。」 「好かれないと。」 「嫌われないようにしないと。」って必死だったから、そのスキルを余すことなく使いこなした。

よくしゃべって、笑って、明るくて、話題豊富な私。
いつも楽しそう。悩みとか無さそう。人生楽しんでそう。


だけど、しゃべらなくて、笑わなくて、どこか冷めていて、1人でこもっている方が、
実は落ち着く。
家じゃテレビも音楽もつけないし。(←関係ないか)


それが、元々の私(気質?)なんじゃなかろうか。


その根拠は?と言われても分からない。

そんなの皆そういう面があるんじゃない?と言われたらそりゃそうだ。


結局、どっちの私も私なんだろう。


ただ、何だろう。


私は別に常に話題がある訳じゃないし、
楽しいことをいつも見つけて考えている訳じゃないし、

しゃべるのだって嫌いじゃないけど、しゃべりたい時に、しゃべりたい人としか、
本当はしゃべりたくない。



話題がなくてつまんない女でもいいんだ。
てか、そんなに話題ないし。

毎日楽しそうって言いたい人には言わせておけばいいんだ。
だからって、本当に楽しそうに生きなくていいんだ。(楽しいけどね)


別にしゃべるの得意だからって、そんなしゃべんなくていいんだ。



何だか、楽に生きていける気がした。




  
     
自分の人生が、思い込み100%であったこと。→

母親へのわだかまり、怒り、淋しさや悲しさを、途方もない位に抱えていたこと。→

自分を自分で鎖でがんじがらめにし、自分を見張り続け、裁き続けてきたこと。→


色々なことに気がついて、もがいて、ぐるぐるしている。


だけど少しずつ。少しずつなんだけど、

自分を縛っていた鎖をゆるめて、ほどいて、
自分の心が少しずつ自由になってきているのを、感じる。


しかし一方で、自分を縛っていた鎖がゆるんだ隙間から、

これまでずっと奥にしまっていたモノが、
今までぎゅうぎゅうで外に出て来れなかったモノが、

ちょっとしたきっかけでポロポロでてくる。



怒り。

淋しさ。

悲しみ。

苛立ち。



ある昔の出来事を思い出して、その時の感情が出てくる、というのなら整理しやすいし分かりやすいんだけど、

そうじゃなくて。


突然に、そしてすごく些細なことをきっかけに噴き出てくる。


例えば、PCが遅いとか、仕事で気分を害するようなことを言われたとか。
ホントならイラつくことでもないような、どうでもいいレベル。

それらはこれまでもあったことだし、よくあること。

いつもは単純にイライラして、時に「イライラするわー。」って言葉にしたりして終わるようなこと。


だけど、それで治まらなくなったりすることがある。


抑えようのない、表現しがたい怒りや苛立ちが、沸々と湧き出てくる。


もうそれは「PCが遅いから」とか「ムカつくこと言われたから」とかから来るイライラや怒りを遥かに超えた、



腹の底からマグマのようにあふれ出てくる感情。

いや、感情というかもうエネルギーと言ったほうがいいのかも。



この前はとうとうそのエネルギーを抑えられなくて、家で暴れ狂った。
(いやー家で良かった。てか家だから出来たんだけど)


汗だくになって、半泣き状態になって、息も絶え絶えで。

その姿は間違いなく、狂気でしかなかった。

どこかで頭はすごく冷めているから、自分でも「何やってんだろ」ってすごく呆れているんだけど、止まらない、止められない。(かっぱえびせんではなく。。)


エネルギーを出し切ったときは、放心状態。
さっきまでの激しさが嘘のように、心はすごく大きな静けさだけ。


このレベルまでにエネルギーが爆発することは滅多に無いけれど、
最近はこうやって、鎖の隙間から、壁の隙間から、あふれ出てくる。



この怒りや苛立ちの感情やエネルギーがポロポロ出てくるようになったのは、

自分の中から出てくる感情が、例えどんなにネガティブなものであっても、決して否定せず、受け止めようとし出してから。

少しずつだけど、自分を許すようにし出してから。


ずーっと出てきたかったんだなー。

ずーっと見ないふりをして、すべて否定して、狭い心の奥にぎゅうぎゅうに、ぱんぱんに押し込めてきたんだなーって思う。


でも、そうしないと私は生きていけないって思い込んでて、自分を一生懸命に守っていたんだなーって思う。


自分にとても可哀想なことをしていた。

だけど、一生懸命に自分を守ろうとしてたんだよねーって思うと、本当によく頑張ったなぁって思う。


こうやってぎゅうぎゅうに押し込めていた色々な思い込みを、沢山の感情を、大きなエネルギーを、


一つずつ受け止めて、認めて、味わって、解き放って、


私は自由になっていく。


初めから自由なはずなんだけどねー。



  
     
5月頃から、毎朝5時~5時半くらいに起きている。
(平日のみ)


ネットしたり、いつも書いているノートに色々と書き込んだり。
今まで夜にやっていたことを朝に持ってきただけなんだけど。


呼吸や瞑想に関心を持ち出してからは、簡単な瞑想も始めた。
目が覚めてなくて、瞑想しながら寝てることも多いけど(--;
そもそも瞑想として正しいやり方なのかもよく分からんけど。



ちなみに、興味ないかもしれないけど、

朝6時25分からNHK教育テレビでやっている「みんなの体操」をやって、
その後にあるピタゴラスイッチに感動して、
目覚ましテレビの「紙兎ロぺ」に笑わせてもらう。

どれもオススメなので、是非見てみてほしい。



ノートに色々書くのは、私には本当に頭の整理に役に立ってて、
朝でも仕事中でも夜でも、いつでも書くんだけど、

朝は手に力が入らなくて、汚い字がさらに汚くなるし、書きづらい。


だけど、余計な雑念がないのか、自然な気持ちや考えが出てくる。


「母親になりたくない」という思い込みに気がついてからしばらくして。

自分がじゃあどうなりたかったのか、気がつくことがあった。



私は、家族の帰ってくる場所でありたい。
家をキレイにして、ご飯を作って。
夫を支えて、子どもを育てる。


帰ってくる夫や子どもを「おかえり」って出迎える。
夫と語りあう。
子どもの話を聞く。
休日は家族と過ごして、遊びにいったり。


私は結婚して「妻」となり、子どもを産んで「お母さん」になりたかったんだ。



ああ、そうか。
そうだったんだ。


世の中不景気だから、自分のキャリアを築かなければとか、結婚してもどうなるか
分からないしとか、そんなことにばかり囚われていて。

1人で生きていく生活力を身につけなければ、今のままじゃ全然ダメだって不安に
支配されていて。

何よりお母さんのようになるのが嫌で、怖くて。


夫をバカにするようになるかもしれない。
嫌いになるかもしれない。

子どもを虐待するかもしれない。
コントロールするかもしれない。

毎日浮かない顔をした日々になるかもしれない。

いつのまにか母親のように子どもに愚痴って心配かけて、
罪悪感を根付かせて、身動きできなくさせてしまうかもしれない。

「あんなにしてやったのに。」って自分に見返りを期待して、
「育てた意味が無い。」って言ってしまうかもしれない。


嫌だ。
そんなのダメだ。
繰り返してはいけない。
私は自分をコントロールできる自信がない。
私はきっと母親みたいになってしまう。


それじゃあ、夫が、子どもが、そして私が可哀相だ。


だから、はじめから望んじゃいけない。
だから、ちゃんと1人で生きていけるように。
だから、はじめから結婚とか家族とか、そんなものに夢をみないように。


私に、そんなことを夢見る、そんなことを望む資格なんてない。


あまりにも自分に自信がなくて、あまりにも臆病だった。


あーもう、本当に馬鹿だなー。
1人で考え込んで、思い込んで、閉じこもって。。



前は言えなかった。

「お母さんのようになってもいい。」



今は、言えるようになった。

「お母さんのようになってもいい。」



絶ーー対!になりたくないけど。

すんごく嫌だけど、ものすごく怖いけど。


でもきっと、きっと大丈夫。
きっと気がつける。

そこから直していけばいい。


完璧じゃなくていい。
上手くいかなくたっていい。

そして、そんなに色々なこと決め付けなくていい。


もし、この先結婚することが出来たら、子どもを産むことができたら、


専業主婦になることもあるかもしれない。

正社員でずっと働き続けているかもしれない。

パートだったり契約社員で働いているかもしれない。

もしかしたら、自分で何か仕事しちゃってるかもしれない。



どれが良くて、どれが良くないなんてない。

どれが出来て、どれが出来ないなんてない。



その時、その状況で必要なこと、出来ることをやればいい。選べばいい。


何も失われない。

何も損なわれない。




  
     
「ずっと1人になりたくない」って思ってて。
でも、「1人で生きていかなければならない」って思ってて。→ 

同時に、「母親のようになりたくない」って思ってて。
そして、「母親のようになってはいけない」って思ってて。→ 


「母親のようになりたくない、なってはけない」って思うのは分かるんだけど、

「1人になりたくない、一人で生きていかなければならない」って、
どうしてそんなに頑なにその思い込みを握り締めているのか、
握り締めた手を放そうとしないのか、自分でも分からなかった。


ある人が言った。


「お母さんの姿を見ていたからじゃない?」



バラバラだと思っていたものが、一つになったような。
よく小説とかで使われている、「欠けていたパズルのピースが全て揃った」というか。(使われてなかったらゴメン)


不思議な感動を覚えた。


母親のいつも1人の姿、孤独な姿。

誰かと仲良くなっては、近づきすぎるのか、言い方がきつすぎるのか、
いつもトラブルを起こしていた。

その度に、平気そうにしながら、きっと深く傷ついていたんだろう。

そして傷つくことを恐れ、次第に1人になったのだろう。


いつも脅迫的に家事をこなし、イライラし、
いつも自分は我慢して(と思っている)、でも耐え切れず、
家族に爆発し、攻撃し、威圧し、支配した。


そして、いつもしんどそうだった。
いつも、楽しくなさそうだった。
いつも、生きにくそうだった。


その姿に、私は無意識に色々なことを感じ、
時に心配し、時にひどく嫌悪感を抱いていたのだろう。


あんな生き方は嫌だ。
一人ぼっちだと、あんな風になるんだ。
なんて悲しいんだろう、何て寂しいんだろう。
そして、なんと恐ろしいのだろう。


それは私が勝手に母親をそういう風に見ていたんだけど、

でもその思いが、

「1人になりたくない」という思いを強固にしていったのかもしれない。


一方で、私は母親がやっぱり大好きだった。


だからというとおかしいかもしれないが、

「母親と同じように生きていかなければならない」

と心のどこかで、思ってたんだと思う。


その思いの始まりは、

「お母さんのようになりたい」

って純粋な尊敬だったのかもしれない。


しかし、その純粋な思い、憧れは、やがて自らを自らで縛りつける、
苦しい思い込みに変わっていった。


お母さんより幸せになってはいけない。
お母さんの前で、そしてお母さんより楽しそうであってはならない。
私も「1人で全然平気」ってお母さんに見せないと。

私だけ幸せになって、私ばっかりみんなと楽しんで、
私だけがやりたいことやっていたら、みんなと遊んでいたら、

お母さんは本当に一人ぼっちになってしまう


だから、

「1人で生きていかなければ、その強さを身につけなければ」


私は、母親に自由に生きて欲しかった。
犠牲に思って欲しくなかった。

「もういつ死んでもいい」とか、
「特に生きている意味ないし」とか、
思い通りに動かない子どもに「育てた意味がない」とか、


そんなこと言われるたびに悲しくて、腹立たしくて、
私が生きていることがいけないんだと苦しくて、
「だったらさっさと死ねばいいのに。」って思って。


母親のことを心配とか言いながら、

結局自分のことしか考えていない自分の心が、嫌で嫌で嫌で仕方なかった。


「母親さえいなければこんなことは思わないのに」


もう、最後はすべて母親のせいだと思ってた。
そして、母親のようにならなければ、きっと大丈夫。
きっとうまくいく、幸せになれる。


だから「母親のようになりたたくない、なってはいけない」って。



分かっている。


全ては、私が1人で「母親」という虚像を大きく膨らまし、
とても大きな「思い込み」を築き、自分で縛り付けていただけ。



でも、見えなかったものが、見えてきた。

いまから。
ここから。




  
     
貸してもらったipodに入っている曲を聴きながら、毎朝チャリで通勤している。

いつもは殆んど聞き流しててBGMでしかない。


でもある日、この曲がかかってその歌詞に思わずチャリを止めてリピートした。

なんとタイムリーな。


しかし、この人はやっぱりすごいなぁ。。




love me, I love you  (歌詞を一部抜粋)


人の心はどうしても 何か足りないけど

そこんとこ埋めるべきなのは

恋人じゃない 親でもない

ねぇ そうでしょう?

Love me ケチってないで 僕はきっともっと愛を出せる



都合いいモノだけひっぱり出して 自分のウンの悪さを

そいつにベットリなする癖ないかい



I love you 心許して 飽きるまで 抱き合ったならなおさら

Let's give it away けなしてないで 

たまにゃ 海も山も人も誉めろよ

なんちゅう love! 

自分の芯から 気持ちよくなりたけりゃ 今出して








  
     
愛されていないのかな?

愛していないのかな?


そうなの?


愛されなければいけないのかな?

愛さなければいけないのかな?


そうなの?



よく分からないのです。




  
     
ある日、ナイナイアンサーっていう番組で遠野なぎこさんのカウンセリングを
心屋仁之助さんがしたことを知り、ネットでその動画を探して見てみた。
 
 
この遠野なぎこさんは、下手に書くと名誉毀損で訴えられるかもしれないが、
なかなかいっちゃった人で。
 
母親との関係によってすっかり心を閉じて捻じ曲げてしまって、
孤独と怒りと寂しさと悲しみを抱えまくって、
それをエネルギーに何とか生きてきているって感じの人。
 
母親への思いを書いた本も読んだけど、(立読みで。すんません。)
読んでても、何だかもう乗り越えました風にしていながらも、
辛さがビシバシと伝わってきて、途中で読めなくなった。
 
彼女ほど私と母親の関係はひどくないけれど、
自分の感情とシンクロしてしまったんだろうと思う。
 
 
カウンセリング内容とか詳しく知りたければ、
是非動画を探して見てみてください。(違法なのかな?)
 
 
遠野なぎこさんと心屋仁之助さんとのカウンセリングを、
私と心屋さんのカウンセリングなんだと思うことにしてみた。
 
 
心屋さんが、「『お母さんみたいになってもいい』って言ってみて」って言った。
 
 
遠野なぎこさんは言えなかった。
言おうとするんだけど、口が動かない。
 
 
そして私も、言えなかった。
 
どうやって頑張って口を開こうとしても言えない。
言葉は出てこないのに、涙はあふれ出てくる。

 
驚いた。

 
その後は、遠野なぎこさん号泣。
私もPCの前で号泣。
 
 
カウンセリングは続き、彼の言う言葉を遠野なぎこさんが復唱し、私も復唱する。
 
 
終わって、しばらく放心状態。
 
 
ああ、そうか。
 
 
母親のようになりたくなかったんだ。
 
母親みたいになるのが怖かったんだ。
 
母親のような人間になってはいけない。
 
 
ずっとその恐怖を抱えて、自分を戒め、裁いてきたんだ。
 
 
だけどイライラしたり、人に冷たくしてしまったり、相手を思い通りにコントロールしようとしてしまう。
 
そこに母親の姿を見て、果てしなく落ち込んで、自分を裁いてた。
 
 
これではいけない。これじゃダメだって。
もう無意識に。自動的に。
 
 
母親のようになってはいけないって、ずーっと自分を見張ってて、
母親に似たところがあったら、嫌なところだったらもちろんのこと、
例えそれが良いところであったとしても、

そんな自分を許せなかった。
 
 
許せないから、何をやってもダメで、いつも完璧を求めて、
でも出来なくて、益々自分を許せなくなっていた。
 
自分だけじゃなくて、周りの人たちも許せなくなっていた。
 
 
その一方で自分を産んでくれた母親を、感謝どころか
そこまで疎ましく、嫌悪してしまうことへの大きな大きな罪悪感。
 
 
その罪悪感が、私を母親にしがみつかせていた。
 
 
いつも鬱々としている母親を助けなければ。
 
いつキレて無視されるかわからないことに怯えながら、
 
母親が喜ぶことをしなければ。望むような会話をしなければ。
 
 
 
母親のようになりたくない。
 
親なのに、そんなこと思うなんて、何て酷い娘だろう。
 
 
母親と似ているところがある自分。

何て恐ろしいことだろう。こんなんじゃダメだ。
 
 
もう罰してばっかり。裁いてばっかり。
 
 
結局、母親がどうかじゃないんだよね。

確かにこれまで母は、自分の子どもだからという理由で、
私をコントロールし、抑圧し、自分の抱えきれない感情をぶつけてきていた。

それに私は怯えて、苦しんで、傷ついて、悲しんできた。


だけど今は。
 
母親が私を縛りつけているんじゃない。

私が私を「母親」という鎖で縛り付けている。

 
苦しいね。


そろそろその硬い鎖を解こうよ。

お母さんに怯えていた私は、これまでの私。

今も怯え続ける私である必要はない。

 
  
     
前の前の続き。→
(続いている感じでもないんだけどね)

自分の根っこにある思いは、
 
 
1人になりたくない。 
 
 
 
だけど、それを覆いかぶさってしまっていたのは、
 
 
 
1人で生きていけなければダメ。
 
1人で出来ないとダメ。
 
 
 
相反する、矛盾した思い。
 
だから、いつもチグハグだったんだなぁ。
 
 
少しでも誰かとつながるために、空気や相手の気持ちをよく読まないと。。
相手が求めているだろう言葉や行動を示さないと。
 
だけどそうやって誰かといると、私が実は何にも持ってなくて空っぽで、
ただのハリボテだってばれてしまう。
 
自分の意見も気持ちも、本当は分かってなくて、何にもないってバレてしまう。
 
そうしたら、きっと呆れられる。
嫌われる。
みんな去っていく。

 
1人になってしまう。
 
1人になりたくないのに。
 
 
だから、輪を乱す(と感じる)人が許せない。
理解しようとしない人が嫌。
 
どうしてみんな、話を聞かないんだろう。
どうしてみんなで共有できないの?
どうしてみんな同じ気持ちにならないの?
1人でも違ったらダメだよ。

 
だって・・・
 
そうじゃないと、私の考えが間違っているのかもしれない、ってことになる。
 
 
間違ってたら、それを誰かに指摘されたら・・・
 
一生懸命取り繕っている私が、崩れてしまう。
 
 
 
ああ何て傲慢で、何て臆病な。。。
 
 
 
だから、ある一定以上に踏み込ませないように。
 
近づけないように、近づかないように。
 
 
そうすれば、バレないから。
 
 
だから。
 
 
1人でも平気にならないと。
 
 
みんなでワイワイすること、流行に流されること。
 
そんな風になっちゃいけない。
 
1人で何にも出来ない子みたい、そんなのダメ。
 
 
流行に流されるなんて、自分がないみたい。
 
1人で何も出来ない、ご飯も食べられない、買い物も出来ない、なんて。。
 
どうやって生きていくの?
 
 
1人で生きていかなければ、1人で何でも行動できなければ。
 
自分の人生を生きていけない。
 
 
 
・・・自分が何を考えて、何を感じて、何がしたいのかも分かってないのに?
 
何がそんなに「ダメ」で自分を縛っているんだろう。
 
 
 
1人になりたくなくて、つながろうとして相手を楽しませよう、
相手の求めるように動こうって頑張って、
 
一方で1人でちゃんとしていないとって、1人で頑張って何でもやって、流行なんかに流されないで、
 
「私」ってものがちゃんとないと。
 
 
1人でちゃんと生きていけて、「私」というものがあれば、
 
きっと周りから認めてもらえて、慕われて、愛される。
 
 
そしたら、1人じゃない。
 
 
 
 
ああもう、何て無茶苦茶な結びつけ。
 
何てややこしくて、面倒くさくて、哀しい。
 
よくそこまで考えるなぁ。って私か・・・。
 
 
 
確かに。
 
私は私の人生を責任をもって生きていくべきだ。
 
誰にも、自分にさえも振り回されず、自分の足で生きている実感が欲しい。
 
もう何年も前からずーっと思い続けて求めていること。
 
 
だけど、だからと言ってそのために「1人」で何もかもを抱えて、閉じこもるのは何かが違うんじゃないか。
 
1人になりたくないのに、周りの人を批判して、拒否している。
 
そして結局1人になる。
 
 
 
本当に私は「1人」なんだろうか。
 
家族もいるし、友達や恋人、仕事の同僚がいる。
 
 
1人じゃない。
 
それに1人で行動することが根っから嫌なのかというと、
それも別に嫌だという訳ではない。
 
 
それなのに。
 
どうしてこんなにも「1人」に焦点をあてるのか。


寂しいっていう単純なものじゃない。

何かがある。

何だろう。。。


 
  
     
おかしくなり始めたのは去年の4月だが、これはもう本当にどうにかしないと。。。
と、色々と動き出したのは9月の終わりごろだったと思う。
本格的に自分を変えようと思ったのは11月の終わりだったか。
 
色々な本やblogを読み漁り、自分に出来そうって思ったワークや習慣を取り入れた。

 
何をやったのかあげると結構沢山あるけれど、振り返って私には合っていたなと思うのは次の3つ。
 
 
①書く。
 
その時思うことを、例え仕事中だろうと(←良くはない)ただひたすらにノートに書き続ける。
特に感情に関係することは、意識的に書く。
泣きながらでも書く。
眠くても書く。(これは結局睡魔に負けていた)
 
 
②アファメーション。
 
自分を肯定することばを朝、夜、ふと思い出したときにひたすら唱え、祈る。
はたからみたら完全に危ない姿でしかないが、3ヶ月も続けてくると何かが変わってきた。
個人的には1ヶ月続けただけでも大きく変化したと思う。
 
 
③呼吸。
 
①②を続けることで、感情に飲み込まれそうになっていた自分を、少しずつ客観的に観察し、落ち着いていけるようになった。
 
だけど、どうしても出てくる不安や恐怖が、全身を緊張させて、みぞおちが重苦しくなったり、動悸がしたり、といったこと続いていた。
 
それをまた何とかしようと思うものだから更にイライラしたり苦しくなるという悪循環から抜け出せなかった。

どうしたらいいのか困っていたときに行きついたのが、呼吸という非常にシンプルなものだった。

 
いつもしてんじゃん。
 
いや、そうなんだけど、そうじゃなくて・・・。
 
 
始めは鼻から息を吸って、肺からお腹(丹田といわれるところ)にまでいっぱい空気で満たすイメージ。
そして息を吐くときは口から、身体の中に溜まっている嫌な感じをすべて吐き出す感じで。(慣れたら吐くときも鼻からがいいらしい)
 
要は腹式呼吸なんだけど。
 
長く吸って、長く吐く。
 
 
劇的な変化があるわけじゃない。

だけど、静かにリラックスが出来る。
 
呼吸に集中し、身体に意識を向けることで、感情や思考のおしゃべりから離れることが出来る。
 
自分から一歩引いて、自分の心を、自分の身体を観察できる。

 
頭の中のおしゃべりに支配されていた私に必要なことだったと思う。
 
 
そうやって呼吸を意識していくと、行き着いたところはヨガだった。
 
バレエをしていた私は、ヨガの動きがなくてただひたすらにポーズをとり続けることの何が楽しいのか分からなかった。
 
ヨガがあまりに流行りすぎていることも嫌で、偏見の嵐だった。
 
 
でも、呼吸に意識を向けるようになって色々調べていくと、呼吸の感覚を正しく、そして理屈ではなくて身体で会得するのに一番手っ取り早いのは、やっぱりヨガだった。
 
うーん、やっぱりそうなるかぁ・・・と思いながら調べていくと、ヨガには調べても「???」なくらい流派があってカタカナだらけで訳分からないんだけど、

私が知りたい、深めたいと思っている呼吸や瞑想に重点を置いているヨガがあった。

 
しかも。

 
チャリで5分、歩いて15分のところにその流派を中心にヨガを教えている教師があった。
しかも自宅でやっていて、少人数で、料金も手頃で、支払システムもシンプル。
 
なんて理想どおりな。
まるで私のために用意されたかのよう。
 
きっとそうだ。
 
 
ということで、通い始めたヨガ。
 
バレエも1年近く行ってなかったので、身体がもう棒。
硬い。痛い。
 
でも、ひたすらに呼吸をしながらすすめていくポーズ。
 
頭のなかはそのポーズと呼吸のことだけ。
とても静か。(痛いよー硬いよーっていう声はうるさい)
 
終わったらすごくスッキリというかリラックスしている。
眠いくらい。実際帰ったらお昼寝しないと眠くて仕方ない。
 
 
この半年以上、頭の中だけでひたすら考え続けてきた。

これからは、自分が「いま、ここ」にいることを、心と身体、全てで感じていきたい。



ところで。。。

初めてヨガにいった日。
レッスンを終えて着替えて、携帯を見たら・・・。

バレエの先生から、「生きてますか?」ってメールが来ていた。

あの先生、絶対何かを感じたに違いない。
さすが・・・。

先生、まだ先生のエネルギーに向き合えるエネルギーが私にはまだないのです。
でも、いつかまた踊りたい。



 
  
     
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