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   ただよいながら…
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32歳。

静かな気持ちで迎えた32歳。

想像もできなかった32歳。

今まで生きてきた中で、一番心静かで穏やか。



ずっと。

私ではない、何者かになりたかった。


私は本当に何もない。


仕事に活かせるような特技も経験もなく、

こういったことがしたい。というような思いもなく、

家事や料理が得意でもないし、まして好きでもなく、

自分のことしか考えてないような趣味しかなく、

他人に喜びや楽しさを与えられるようなユーモアもなく、

機転も融通もきかないし、面白みもない。

世の中に何か少しでも貢献できるような能力は何ひとつなく、

勇気もなく、根性もなく、忍耐もなく、

すぐに落ち込むし、意地悪なことを考えるし、嫉妬するし、妬む。


本当に、何もない。


だから、何かしなければ。

だから、何か見つけなければ。

だから、立派な人間にならなければ。

だから、優しい思いやりのある人間にならなければ。

だから、何でもできる人間にならなければ。


そうじゃないと、嫌われる。

そうじゃないと、認めてもらえない。

そうじゃないと、一人ぼっちになってしまう。


いつだって、私じゃない誰かになりたくて。

いつだって、こう生きたらいいよという道しるべが欲しくって。

いつだって、大丈夫、それでいいって言ってほしかった。


でも。


この1年間。

こんなにも自分に絶望して、腹が立って、責めて、嫌って。

こんなにも自分を見つめて、許して、誉めて、愛したことはなかった。



もがいて、もがいて。本当にもがき続けて。

ようやく、気付きかけてきた。


私は、私でよくて、何者になろうとしなくて良かった。


やりたいことがないままで。

何の特技も趣味もないままで。

何の面白みもないままで。

性格悪い部分があったって。


そんな私で良かったんだと。

いつだって、私は私でしかたなかったし、それで十分だった。



この先も、落ち込むことは何度もあるだろう。

この2日後にはもう落ち込んでいるかも。

何度も、自分を、起きている現実を、疑い、不安になってしまうだろう。


それでも。

何の根拠もないけれど。

唯一信じていることがある。



何が起きても、どれだけ落ちても、嘆いても。

私は、何度でも起き上がれる。前に進める。

だから、絶対に大丈夫。


この数ヶ月。

この「大丈夫」が私の合言葉。

どんだけ迷いのループに入っても、

無理やりにでも言い聞かせている。


32歳。


私、おめでとう!



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例えば、恋人がいて。


ちょっとこういうところ好きじゃないな、とか。

むしろ、ここ嫌いだな、とか。

もう少しこうだったらな、とか。


外見だけとかまでいくと。

実ははっきりいって、全然タイプじゃない、とか。

ここちょっと変よね、とか。


そういうのって、必ず出てくる。

時には喧嘩とかして、「すっごい、ムカつく!」「もう嫌だ!」って。

思ったりすることも、きっとある。


でも。

良いところも色々あって、大好きで。

付き合いが長くなるにつれて。

許したり、良い意味で諦めたり、色々なことを受け容れて。

折り合いをつけながら、愛していく。


100%完璧じゃなくても。

嫌いなところがあっても。


それでも。

愛していける。



だったら。

同じように。


自分のことだって。


100%完璧じゃなくても。

嫌いなところがたくさんあっても。

認めたくないところがあっても。



愛してもいいんじゃない?

愛せるんじゃないの?



って。

ふと、思ったんだが。


例えが悪いかなー。


  
     
京都に旅行に行ってきた。

当初行く予定にはなかったけれど、

舞妓体験に行く途中で立ち寄った八坂神社で

ふとおみくじを引こうと思ってひいてみた。



タイトルの通り。



凶。


まさかの凶。


宮島でも過去2回引いたけど。


まさか京都でも凶。


凶を呼ぶ女。



動揺しながらも、ここまで凶を引く女も珍しいだろうと笑えた。


そして、おみくじの神様からのメッセージ。




夕べとなれば日の暮れるは常。

また朝(あした)となれば日が昇るも常。


明けぬ夜は無し。

心穏やかに神に祈りて、静かに朝を待つべし。



★願望 : 叶う後慎まなければ破れる事あり
   
 → 慎めば大丈夫ってことよね?慎みます。

★仕事 : 熟慮断行すれば進展あり
   
 → しっかり考えます。

★待人 : やや遅し
   
 → でも来るんじゃん?

★病 : 長引くとも全快する
   
 → 全快するならいいじゃない!

★勝負事 : 逆らうと自滅す
   
 → 流れに身を任せます(テレサテンのように)

★受験 : 大計を練れば成果あり
   
 → 計画的に頑張れば大丈夫ってことよね?

★建築・移転・縁談・旅立 : 迷い起こりて先に進まず
   
 → いくら紙のスペースがなかったとはいえ、なんでこの4つが
   ひとまとめになってるの?無理がない?
   とりあえず、先には進まないが後ろにも進まないようだし。
   最悪ではなさそう。



このおみくじ、本当に凶なの?

全然凶じゃなくない?

むしろ希望にあふれたメッセージだと思うのだが。


「明けぬ夜は無し。」って。


焦らずに。

大丈夫だから。


そう言っているとしか思えないのだが。


そして。

自分の置かれている環境下において、

今が「凶」なんだとしたら。


後はもう上がってくだけじゃない。



という訳で。

凶を引いたにも関わらず。

ご機嫌でおみくじを持って帰ってきた。


今日で9月が終わる。

いい区切り。


















  
     
8月末。

友達からの

「octobreにとって幸せってなに?」

という問いかけが、


私の中にまだ残っている心の鎖を解く鍵となった。



しかし、8月下旬の気候の急な変化と、

仕事が猛烈に嫌モードになったのが重なったこともあって、

何ともきつい3週間だった。



以前のような、みぞおちのあたりがきゅうっとなるような不安とか、

どうしよもない悲しみとか、怒りとか、そういうのは全然なくて。


でも、逆に思考や感情が全く動かなくて、考えるのがめんどくさくて、

身体や頭がひたすらに重かった。


仕事はすっかり早く終わって帰っても、部屋で大の字になったきり動けない。

朝も起きられなくなって、ご飯の支度も本当に面倒くさくて。

とにかく動けない。


気持ちばかりが焦ってて。


今までのようにノートに気持ちを書き連ねることもなく。

というか、書けず。書いてても出てきそうで出てこなくって。


それくらいに、向き合いたくないのか。

気がつきたくなかったのか。


それでも懲りずに。

つらつらと書き連ねながら、思いを巡らせながら。


ようやく気がついたこと。



私は何をしても、何を感じても、何を考えても。


24時間365日。


私を否定し続け、責め続け、裁き続けている。


褒めることもなく。認めることもなく。許すこともなく。



例えば誰かを純粋にいいなって褒めても、

「そうやって相手に嫌われないようにしてるだけに違いない。」と、

自分で褒めておきながら邪推し、そんな私は最低だと責め、


まして誰かを妬んだり、意地悪なことを考えでもしたら、

「こんなんだから、いつまでたっても成長できないんだ。ダメなんだ。」と、

自分を責めて、落ち込む。


ちょっとしたことに「幸せ」を感じられなかっただけで、

「幸せに気がつけない、感謝できないような女なんて。」と、

自分に失望している。


何をやっても責めてる。何をやっても拗ねてる。何をやっても裁いてる。


どうして。

どうしてここまで自分をこきおろせるのか。

どうしてこんなに自分を苛めるのか。



何というか。

私って、かわいそう。


だけど。

こんだけ責められまくりながら、それでも生きてる。


私って、強い。


いや、図太い。




  
     
去年。


私を極限まで追い詰めてくれた人が。


「自分を根底から見直さないと。」と、苦しみと共に大きな気付きを与えてくれた人が。





異動になった。





歓喜。


狂喜。




異動を見たとき。


これまでの、最も苦しかった1年が。


走馬灯のように甦って、泣きそうだった。




毎日蕁麻疹が出て。


毎朝早くに目が覚めて。でも起き上がれなくて。


職場では手が震えてPCが打てなかったり。

トイレに駆け込んで動悸を抑えて。


帰り道は、涙を流しながらチャリをこいで。

シャワーを浴びながら、むせび泣いて。



もう仕事もプライベートも全てが行き詰って。

怖くて。

逃げたくて。

投げ出したくて。


もう許して欲しくて仕方なかった。

助けて欲しくて仕方なかった。



だけど。


彼女は、本当はきっかけを与えてくれたにすぎない。


今はそう思う。


彼女は、私の鏡だった。

見たくない自分の醜さ、愚かさ、脆さ、弱さが彼女を通して、全て映し出されていた。



そしてもう、私は自分といよいよ向き合わざるをえなかった。

それが出来る時期に来ていた、ようやく。


彼女は、私のために存在してくれたんだと思う。



おかげで、今。


私がここにいる。



あの頃を分からなかったことが、分かるようになった。

許せなかったことが、許せるようになった。

不安と怒りと恐怖に凝り固まっていた心が、ほぐれてきた。


そのきっかけを与えてくれた彼女の存在は、とても大きい。



でも。


感謝は確かにしているけれど。

されたことを忘れるわけもなく。


私は、自他共に認める執念深い女。



だから、本当に心の底からホッとしている。

これ以上、憎しみや怒りの感情を握り続けないで済むから。



これからは。


より平和に。

より心穏やかに。

もっと楽しく。

もっと笑って。



もう二度と。

決して交わることのない、

それぞれの人生を、


生きていけますように。。。



乾杯!!!!!!


  
     
この1週間。


仕事がもう、嫌で嫌で嫌で嫌で。



というか。



「マジで、くそおもんない!」

(言葉の汚さは百も承知です。人間性が現れていることも承知してます。)



な状態で。

時折あまりのつまらなさに、気が狂いそうで、久々にすんごいイライラ。



しかしそれにしても。。。



忙しければ忙しかったで、くたびれ果てて心と身体を病み。

落ち着いて元に戻れば戻ったで、このあり様。



まぁそうなるんだろうな、とは思っていたけれど。


やっぱりそうなって。


もはや呆れるばかり。



職場の人に。


「我慢せんとね、楽しいことはないんよ。」



そうなの?


我慢って何?


我慢が足りない。

逃げているだけ。

面白くないのは、みんな同じ。



何で?

我慢しないといけないのは何で?

お金もらってるから?

お金もらうことって我慢することなの?


言ってることは分かる。

分かりすぎるくらい分かる。


でも。


楽しみながらお金もらうって出来ないの?


あれ?

いや・・・?

違うか?


今、目の前の仕事を楽しむことが出来ないことが問題なのか?


今の仕事を楽しむか。

辞めるか。


それしかないのかー。



私。


どうしよう。


どうあることが、私にとって楽しいことナンダロー。



自分の心の中の問題が落ち着いてきたからカナ?
(って私が勝手に問題化してただけだけど)


次なる課題がやってきたようなかんじ。



さ。


ようやくスタート地点にたったようですし。



この先、どうしますか?って。



どうしよう。


本当に。


  
     
「存在する価値がない」

「1人になりたくない」

「1人で生きていかなければならない」

色々と思って、思い込んで、縛り付けていたけれど。


最近、気がついたこと。

まだやってたんかいっ!って言われそうですが。(誰に?)


ええ。

ずいぶん、楽に、穏やかに、平和に、楽しく生きていますが。

それでも、まだぐるぐると考えてたり。


で。


改めて、そんな中で気がついたこと。


どうやら、私の人付き合いの根底には。前提には。



自分は、嫌われる存在。


というのが、在るみたい。



それはきっと、母親からしょっちゅう、

「そんなことしたら、嫌われるよ。」「そんなんだから、嫌われるんよ。」

って言われてて、

また厄介なことに小学校、中学校で色々と失敗して、実際嫌われてしまった経験が、



私は、嫌われる存在である。


っていうデフォルトを、


言われるたびに、

友達関係で失敗するたびに、



どんどんより強固にアップデートしていったんだなーと。



そして、私がここで頑張ったのは、嫌われる自分をより強固にするのではなく、


嫌われないために、

好かれるために、

相手の期待に応えるために、


明るくあろうと、

賢くあろうと、

空気を読もうと、


頑張って、

頑張って。


でも、結局は独りよがりで、1人で勝手に頑張っているもんだから、

1人で勝手に疲れて、悲しくなって、怒りをためて、

自分にがっかりして、責めて、罪悪感もたくさん貯めこんで。


心も身体もクタクタになって。

身体壊して、心も壊して。



でも。


私は確かに、嫌われたこともあったし、

今でも私のことを嫌いな人って、きっといる。


だけど。


だからって、「私=嫌われる」 ではなくて。


もう、「私は嫌われる存在」だという思い込みを、いい加減おかしいんじゃないの?って、疑ってもいいんじゃないかと。


そんな前提を、デフォルトを。

どうにかデリートしたり、上書きできたりしないかと。


「嫌われる存在」という前提をもとに、考えたり、悩んだり、行動したりするのは、ちょっともう疲れちゃったよね。


いやはや、思い込みっていうのはすごい。

その思い込みで31年生きてきたから、その思考のクセもなかなか強固で。

その思い込みがこれまでの私を守ってきてくれたんだけど。


でも。

もういらないんですよ。


今まで、お世話になりました。


  
     
この土日、従弟が来てた。

彼のファンが、私の地元であるコンサートに一部出演するのを見に。


私も彼に頼まれ、コンサートに付き合ったのだが、

5時間にも及ぶ長丁場で、感動とうんざりで終わった。


ただ、予想以上に感動する場面もあり、

ステキなパフォーマンスを見せてもらったし、

これを無料で見させてもらえたのは、ラッキーだと思う。


感謝。


で、従弟は私の家に泊まって、今日は祖母と一緒に、祖父のお墓参りに行った。

彼はもう何年も祖父のお墓参りに行ってなくて、一生懸命に祖父のお墓を磨いていた。

そんな2日間。


イベントそのものよりも、考えること、気づくこと、疲れることが多かった。



私も本当によくしゃべる。うるさいと思う。

だけど、この従弟。


私の3倍以上はしゃべる。


こっちがちょっとメールしたいってメールしていようが、

PCチェックしていようがなんだろうが、構わず話してくる。

あげく、動画まで見せようとしてくる。

おしゃべりとかを超えて、語ってくる。


私の話を聞かないとかでもなくて、私の話も聞いてそれに対してもコメントをくれる。

だから一方的に自分の話ばかり、というわけでもない。

それに彼は彼で色々と苦労をして頑張ってるのも知ってるし、

根は素直で純粋で、明るくてとってもいい子だ。


だけど、そうなんだんだけど、


「こいつは、いつまでしゃべり続けるんだろうか。。。」


だんだんイライラしてきて、最後はもうグッタリした。



でも、他人は自分の鏡だという。



本当に、その通りで。

傍からみたら自分もきっとこんな感じなんだろうなぁ・・・と凹んだ。



何でこんなに彼にイライラするのか。

彼の話とか、彼のおしゃべりにイライラしているんじゃない。


話を聞いてほしい。

自分を理解して欲しい。

自分の意見は間違っていない。


彼の話からにじみ出てくるそのサイン(私が彼の話をそう受け止めている)。

そこにきっと私は反応している。



私が、そうだから。

そして、そんな自分を否定しているから。嫌だから。



従弟で、しかも1コ下で従姉弟たちの中でも仲がよかったから、

ある意味他人よりも境界線を越えて自分を出すし、出してしまう。

だからこそだったのだろう。


まざまざと、自分の姿を見せられた。



しかし同時に。


自分の恋人に、深く感謝した。

私の恋人は、従弟とは真逆でそんなにしゃべらないし、穏やかというか静かというか。

しゃべらない訳ではないし色々話すけれど、色々と考えて話すのか、口数が少ない。


それが会話のキャッチボールやコミュニケーションが

うまく出来ていない気がして、もどかしい思いを何度もしていた。


でも、私の時に止まらないおしゃべりを聞いてくれて、

そして自分も口数が少なくても、話す時はちゃんと話す。



もう、それ以上何も必要のないくらいに、十分じゃないかって思った。



私は従弟と同じように、果てしなくおしゃべりだ。

でも、おしゃべりでうるさい男は無理。

私もあれこれと偉そうに語るが、同じように延々と語り続ける男は無理だ。

イライラする。

私が十分勝手なことは分かってる。


でも。

私が2人いる必要はない。


しゃべり続け語り続ける従弟の話を聞きながら、恋人に感謝した。

そして、それに気付かせてくれた従弟にも感謝。


でももう、ホントーに疲れた!

2日、いや1日で限界。

そして。

帰りに実家に寄ったら、母親の言葉を、いつもの条件反射で正面から受けてしまって、またぐったり。


帰りにすっかり落ちてしまって、久しぶりに泣きながら思った。


親、つまり今ある私の家族、そして祖母や親戚とかは、

私にとっては癒される場所でもなくて、

無条件で受け容れてもらえる場所でもなくて、

たたひたすらに、母親や祖母、親戚という鏡を通して、

自分の姿をまざまざと見せ付けられて、

条件反射でつい後ですごく自分でも嫌になるような言動をしてしまって、

負のループに入り込んでしまいかねない、

危険な場所でしかないんだなって痛感した。



でも、そこから自分と向き合って、自分を受け容れて、認めて、許していく。

嫌な自分も、頑張ってる自分も、汚い自分も、真面目な自分も。


どこかでまだ、親に甘えてて、期待してて、拗ねてる。イジけてる。

だから、いつまでたっても抜け出せない。


もう、いい加減にしなきゃ。


疲れたなぁ・・・。


  
     
何となくここ最近、身体が重かった。

いつも遅くても5時半には目が覚めるのに、ここんとこそれがキツかった。


昨日は起きた瞬間、「何と言って休もうか」と考えた。

今日は起きた瞬間、「あー無理かもー」って思った。


熱もない。

頭も痛くない。

お腹も痛くない。

昨日、お弁当はもう作った。

お湯を沸かして水筒に白湯を入れた。

お米も研いで予約セットした。

めっちゃぐだぐだだったけど、6時25分からのみんなの体操もやった。


多分、いつもどおり、行こうと思えば普通に行ける。

せっせと何十ものファイルをPDF化する単純作業と、
イラッとたまにする照会電話を淡々と受けるのだろう。


だけどNHKの0655みながら、「ダメだ、休もう」って決めた。


人生初のずる休み。


これでもか、という位寝た。


こんなに寝たのは赤ちゃん以来かも。

おととしに急性扁桃炎で入院したときも、4月に細菌性急性腸炎になったときも、こんなに寝てなかった。


何度か目は覚めた。

でも、すぐまた寝る。

チョコレートひとカケ食べて、また寝る。

トイレにおきて、また寝る。


ようやく、頭も目も覚めて、時計をみたら18時過ぎてた。


心から色々なものを吐き出すのに、結構なエネルギーを使っていたみたい。

まだ頭の芯がボーっとしているけど、でも何だかクリア。


ようやく動き出そうと今PCの前。もう21時半。



明日はYoga行って、マッサージ行って、身体もクリアにして、来週からまた改めて。




  
     
「そんなことしたらバチが当たるよ。」


私に限らず、他の人も子どもの頃にそんな風に言われたことはあるだろう。



私は、この「バチが当たる」ということに、異常なまでに執着?恐怖?を抱いていた。


幼稚園の頃には、何かほんとにちょっとしたいけないこと、ずるいこととかするたびに、それを神様が見ていて、


「バチが当たったらどうしよう。」


本気で思ってた。

本気で恐れていた。


それは行為だけでなく、自分の思考、感情、妄想に対しても。


「神様は、今わたしが考えたずるいことも全部わかってるんだ、どうしよう。」

「ああ、また悪いこと考えてしまった。どうしよう。」

「こんなことやってしまった。神様は絶対に見ている、どうしよう。」



何か特別に信仰を持っているわけではないので、「神様」はあの宗教の「神様」とかじゃなくて、ただ絶対的なもの。


自分がやったことを見張られていて、考えていることは全てお見通で、そしてそれらに対してしかるべき制裁が与えられる。


中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても、社会人になった今でも、この思い込みがずーっと根っこにあった。


私の思考、行動、感情の全てにこの前提があった。



でも、バチを当てるのは、私を見張っているのは、私に制裁を与えるのは、


「私」だった。


神様は、他の誰でもなくて「私」だった。



・・・・・・。



あれ・・・?


私、神様?


え?


あれ??



バチを与えるのも「私」

じゃあ、許すことができるのも「私」


私を見張るのも「私」

じゃあ、私を見守ることができるのも「私」


私を不幸にするのも「私」

じゃあ、私を幸せにするのも「私」



そうかー。

神様は私だったんだー。


いやー、完全に逝っちゃってるって思われそう(苦笑)






  
     
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