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   ただよいながら…
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あるトラブルでも、悩み事でも何でもいい。

あまりいい気分にはならないことがあったとき。


そのことについて考え続ける。

時には眠れなくなったり、

仕事中でも考えてしまったり。

トラブルやら悩みやら、程度はあるだろうが、深刻さが深まるほどそうなるだろう。


でも。

例え中々寝付けなかったとしても、寝てしまえば寝ている間はそのことを忘れている。(ストレスが強いと夢に出てきたりすることもあるだろうが・・・)


しかし、朝目が覚めると、その出来事が頭に浮かんできて思考する。


考えていなかったのに、そして別に「考えよう」としていなかったのに、思考し始める。


自分の意思とは別に「思考」は始まっている。


そして、時折、ふとした時にその「思考」にはまりこんでしまっている自分に気がつく。

「あー私、また考え込んでた。」とか、「何かずっとこのことについて考えてるな。」とか。


自分の意思とは関係なく始まる「思考」。

「思考している」自分と、思考している自分に「気がつく」自分。


どっちが「私」なんだろう。


「私」は「考えよう」なんて思ってないのに、「考え出して」いる。


「考え出した」のは誰?


人に話すと、「そんなのどっちも「自分」だよ。」と言う。


言いたいことは分かる。そうだな、って思う。


でも、違う。

私が言いたいことは、何か違う。そうじゃない。



こうblogにしてみたが、さほど悩んでいる訳ではない。

仕事がヒマすぎて仕方がないので、仕事の合間に色々考えてたら思ったこと。


ただ、なんだろうなー。

「思考」というものは、自分の意思とは関係なく湧き出てくる。


「自分」がその「思考」をわざわざ拾って、そこにこれまでの経験やら観念やらといった自分が持っている「判断」を与えて、「感情」をくっつけて、ときに喜び、ときに悩み、苦しんでいる。

ただそれだけなんかなーと。


でもイマイチよく分からないなー。

でも何だか気になるのでメモしとこー。

って感じの今日のblog。



そんでもって、みんな「自分」とか、「本当の自分」とか言うけど、一体どれを指して「自分」っていうんだろう。

どれも「自分」?

もしかしたらどれも「自分」じゃなかったりして。



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休日の昼下がりのカフェでの出来事。

隣の女の子が延々と彼氏の不満を語っているのを聞きながらボーっとしていたら、心の奥から出てきたこと。


書き出したくて、でもまとまらなくて、果てしなく長くなって、書いては消して、書いては消して。

まだ完全に消化できていないのか。

はたまた消化しちゃってそこに思うことがなくなったのか。


ひとまず、ざっくり結論だけ書きとどめておこうと思う。



私は、「問題」がないと、人との関係、人とのつながりはもてないんだと、思っていたようだ。



悩むのが嫌だ、苦しいのはもう沢山、「問題」が起きるたびにうんざり。



とか言いながら。



悩んでないと、苦しんでないと、「問題」がないと、人とつながっていられない。

悩むことで、苦しむことで、「問題」があることで、人との関係、人とのつながりを感じられる。

また、それでしか自分の存在を示すことが出来ない。

そこにしか自分の価値がない。




「問題」なんてなかったはずなのに、一生懸命「問題」を作ってたんだ。

一生懸命「問題」を作って、悩んで、苦しんでまで、人を求めていたんだ。


書くものがなくてそこにあった紙ナプキンにポツポツと書き出しながら、そこに行き着いたときの衝撃と解放感たるや・・・。


いつも人とつながっていたいと切望しながら、一方で自分から人を遠ざける、人から遠ざかる。

その相反する感情を持て余していたけれど、そこの原因が分かった気がする。


そして自分の中に深く深く根付いている「自分には何もない」という、一体いつの間に、どんな根拠をもって根付かせたのか分からないこの劣等感。

この劣等感がさらに自分で「問題」を作って、1人で勝手に悩み苦しむという不毛なパターンを繰り返してる気がするこの頃。



ここら辺はまぁぼちぼち。。

最近あんまり一度に沢山のこと考えられない。


春ですな。



  
     
髪を乾かして、ふと本棚の隙間からひょっこり顔をだしている紙をとりだした。


多分1ヶ月くらい前。


前回のblogにした母への気付きが出てきたのと同時に、

色々な感情があふれ出てきて、

それをひたすらに書きなぐったものだった。


その紙の端っこに書いてあった。




私を幸せにしたい。

私を大事にしたい。

私の想いを知りたい。

私の声が聞きたい。

私を認めたい。

私の人生を、

私のたった一度の人生を

満たしたい。





本やネットやBlogで色々な人の悩みや苦しみを見てきた。

みんな、「自分は愛されてない」「自分には価値がない」とかって思ってる。

自分もそうだった。


色々なところに「自分を愛することが大事」とあった。

だから、一生懸命自分を愛そうとした。


そして、


「自分は愛されていない」なんてこともなくて、

「自分には価値がない」なんてこともなくて、

自分のことを結構愛していることに気がついてきた。


ていうか、自分のことにこんだけ全エネルギーを注いで悩めるっていうのは、
それだけ自分のことが大好きだから以外にないだろうと思う。


だけど。

それでも私は。

愛されていても、自分には価値があっても、自分のことを愛していても、

それでも私には何にもないって思った。


周りはもう結婚して子どももいて、2人目も出来てたりして、
自分で仕事している人も沢山いて、
例え結婚してなくてもキャリアしっかりつんでいっている子もいて、

それぞれで自分の道を生きているのに。


私は何にもないどころか、何にもない自分をどうしたらいいのかも分からなかった。

愛されていれば、自分に価値があれば、自分のことを愛していれば、全てが良くなっていく、色々なことが分かってくるんだと思ってたのに。



分かるわけがないよね。

この出てきた紙をみて思った。


ていうか1ヶ月前に私こうやって言ってるのに。

自分で書いたって、本当に気がつかないと分からないんだ。



具体的なものをずっと求めていて、具体的に何かしないとダメなんだと思ってた。

確かに何か為すには何かしらの行動が必要なんだけど、

その前にそもそも自分が何を望んでいるのかを分かってもないのに、

ひたすらに外の世界ばかり見て、何かしなければって思ってた。



結局。

私自身を何一つ見てなくて、何一つ考えてなくて、何一つ分かってなかった。



私を幸せにして欲しい。

私を大事にして欲しい。

私に関心を持ってもらいたい。

私の話を聞いて欲しい。

私を認めて欲しい。

満たして欲しい。



確かにそうなんだけど。

そうだとそれはとても嬉しいし、心地いい。


だけどそれは誰が?

それは誰に?


母親に?

恋人に?

友達に?


違うんだ。

私が、私を知って、私を聞いて、私を感じて、

そして、そこから動くんだ。


何度も何度も「自分」「自分」って言ってきて、

ようやくここ。



  
     
母の無駄に意地を張る姿、とその根性。

母の卑屈な言動。

母のすねた姿。

母の嫌味。

母の素直じゃない態度。



これって私の姿だった。


私の心も随分拗ねていて、ひねくれていて、卑屈で、いじけていて、勝手に孤立してしまう。


母の怒り、母の寂しさ、母の悲しみ、母の孤独、鬱屈とした思い。


母の言動や態度に辟易しながらも、母の気持ちがこんなにも手に取るように分かるのは、母娘だからではなく私の姿だったからだった。


「ああ、母は苦しいんだな。」


だって私は、自分の思考や感情が拗ねたり卑屈になったりいじけモードに入るととても苦しい。

寂しいのに、悲しいのに、出口を自分でふさいでしまって、でもそれをどうしたらいいのか分からなくて、更に閉じこもってしまう。

ますます孤独感は募るし、自分のことが嫌になるし、うんざりする。


これまでは母の言動に「なんでこの人は・・・。」って毎回毎回うんざりして腹が立って、イライラして、それに振り回されてしんどいだけだった。

それは、自分の姿にうんざりして腹が立って、イライラして、振り回されて、しんどかったんだなーって思った。


拗ねた自分、ひねくれた自分、いじけている自分に気がついて認めた時、母の苦しみを理解した時、母にイライラして腹が立って苦しくなっていた心が小さくなった。(無くなってはいない。)


拗ねた自分、ひねくれた自分、いじけて卑屈な自分が消えたわけではないけれど、そういう自分にどっぷり浸かってしまわないようになれた。

「ああ、いじけてるな。」、「ああ、また閉じこもってるな。」って。

そこの視点にたてただけでも随分ちがう。


にしても。

こんなことに気がつくのにこんなに時間がかかって、こんなに苦しんで、大変だなー私。

  
     

世界各地で、死んだ人間がよみがえる「復生者」のニュースが報じられていた。生き返った彼らを、家族は、職場は、受け入れるのか。土屋徹生は36歳。3年前に自殺したサラリーマン、復生者の一人だ。自分は、なぜ死んだのか?自らの死の理由を追い求める中で、彼は人が生きる意味、死んでいく意味を知る―。私たちは、ひとりでは決してない。新たな死生観を描いて感動を呼ぶ傑作長編小説(「Book」データベースより引用)


ちょうど1年前くらいに友人が教えてくれた本。

ちょっとネタバレあり。


この主人公は自殺し、その3年後生き返った。

何故自殺をしたのか彼には全く分からず、その理由を求め自分を探していく。

そして彼は自分が死にたかったのではなく、生きたくて生きたくて仕方なかった。

そしてそのために、「自分を消したかった」と気がつく。

幸せに生きるために、家族と幸せに一緒にいるために。

ダメな自分を。
間違っている自分を。

本当の自分はこうじゃない。
こんな自分は違う。

こんな自分は消してしまわなければならない。



よく分かるなぁと思った。

これまで。
小学校のころから今まで。

苦しいとき、辛いとき、しんどくて仕方なかったとき。

「死にたい」と思ったことはなかった。

だけど。

「消えてしまいたい」とは何度も何度も思った。

こんな自分は間違っている。
こんな自分はあってはいけない。
この自分はおかしい。

だから、こんな自分を消してしまいたい。

それは死にたいとはやはり違う。

死にたくなんてない。

だって私は、どうやっても「生きたい。」

ただただ、正しい自分、幸せな自分で生きたくて、
そうじゃない自分は葬り去りたかった。


自分を消したいという発想。
何故、自分が自分を「消したい」と思うのか。

自分は自分でしかないはずなのに。
自分は1人しかいないのに。

そしてそれを作者は「分人」という考えでこの作品の中で説明している。

その考えが世間的にどこまで理解されるのか受け入れられるのかは分からない。
拒絶する人はとことんするのかなーって思う。

それに私もこの考えが全てだとは思わない。
「んーー??」って思う部分もあった。

だけど、何だか楽になった。
答えというかヒントがあった。


中盤だれたけど、いい作品だった。

是非読んでみてください♪
 



  
     

私は、間違えている。

私の人生は、間違えている。



仕事帰り。

ホント突然のこと。

何を考えるでもなく、むしろトマトを買おうとか考えて歩いていたら。

突然出てきた。


思わず、つぶやいてしまった。

危ない人。




いつから刷り込んできたのかさっぱり分からないけれど、私はずっと、

「自分は間違えている。」

「私の人生は間違えてる。」

という、深い深い前提を持って生きていたみたい。



自分の思考も、感情も、言葉も、行動も、恐らく更に先まで行きつかせるとするならば、生きているそのことも、


すべてが間違えている。


ああ、だから。

どれだけ自分を見つめても、見つめても、見つめ続けても。

吐き出しても、吐き出しても、吐き出し続けても。


許しても、許しても、許せない。

信じても、信じても、信じきれない。

愛しても、愛しても、愛しきれない。



なんだ。

そりゃ、そうだ。

そうですよ。



自分は間違えているんだから。

私の人生は、間違えてるんだから。



だからこそ、更に間違えることがないように。


自分を許してしまわないように。

だって間違えてるのに許しちゃダメデショ。


自分を信じてしまわないように。

だって間違えてるのに信じちゃったらえらいことになっちゃうデショ。


自分を愛してしまわないように。

いやいや、間違ってるの愛しちゃってどうすんノヨ。






なんだー。


いやはや。


何とも大変なルールを敷いていたようで。

誰が決めたんだ?



いやはやいやはや。


オツカレサマデシタ。



  
     
頭の中のコンピュータが混乱している。


「アップロードに失敗しました。」


*****


自分のエゴとか、不安や怒り、焦りや迷いといった感情とかから解放されれば、何の悩みもなくなる。色々なことがうまくいく。人を愛せる。自分を愛せる。色々な物事や現実を、ありのままに受け容れられる。


それって・・・。

つまり、自分のエゴやら感情やらというものがある限り、手放せない限り、悩みはなくならないし、色々なことがうまくいかない。人も自分も愛せなくて、色々な物事や現実を、ありのままの受け容れられない。


そんな今は、そんな自分は、嫌だ、ダメだ。

今や自分を、全身で否定しまくってる。

何一つ、許していない。


ああもう、何が言いたいのか。



こういう言い方は、果てしなく誤解を生むので使いたくないんだけど・・・。


エゴやらネガ感情とか、自分を縛りつけている観念から解放された自分を「本当の自分」ということにすると、
(ここで、そんな自分も「本当の自分」じゃん、とかいう分かりきったツッコミはなしで)



本当の自分になれれば、全てうまくいく。全て愛せる、愛される。何の問題もない。


ということは。



本当の自分じゃない限り、うまくいかない。愛せない、愛されない。問題が起こる。


ということは。



うまくいかない、愛せない、愛されない、問題がある、という限り、本当の自分になれない。


ということは。



永遠に本当の自分になれず、

全てうまくいき、愛して、愛されて、何の問題もないということにも、永遠にならない。

(ここで、全てうまくいくとか、何の問題もないとかって言うことはないよね、というツッコミもなしで)



結局、自分で自分に「永遠に楽にはなれない。」という制限をかけている。


永遠にエゴに振り回され、エゴを憎み、疎んで、

でもそんなエゴも自分の一部である訳で、

自分を憎み、疎んじていることに傷つき、罪悪感にかられ、

愛したい、愛せない、許したい、許せない、もうどうしたらいいか分からない。

って悩み苦しみ続け、

そして永遠に、もはや死ぬまで本当の自分になれない、

という設定をしている。


ということよね??


何、これ。

何の、物語?

喜劇?悲劇?茶番劇?

何がしたいの??


フリーズ寸前。






  
     
苦しくて仕方がなかった2012年の終わりに、私は来る2013年に向けて決めたことがあった。

「2013年は、たとえぐちゃぐちゃになっても、どれだけの時間とお金を使ってでも、自分の根っこの問題を解きほぐす。

自分で自分を誰よりも慈しみ、誰よりも愛して、大切にする。そして周りを大切にする。」


2013年が終わる。


誓ったとおり、私はこの1年365日。

何度も何度もぐちゃぐちゃになって、泣いて、怒って、呆れて、赦せなくて、途方に暮れながら、時間とお金をかけまくって、自分の心の声を聞き続けた。


自分を愛するということが分からなかった。

意識がすぐに外に向かってしまって、自分が見えなった。

4月にはとうとう体調を崩して、胃腸が麻痺して動かなくなった。

お化けまで出てきた。


その4月の病気を超えてから、何か心の蓋が取れたのか、色々なものがあふれ出てきて解放されていった。

でも、あふれ出てきたものはあまりにも多く、沢山の怒り、悲しみ、恐怖、不安が、出しても出しても、解放しても解放しても、これでもかこれでもかと出てくる。

現在進行形。

だけど現実は少しずつ、確実に好転し、私は日々のイライラや怒り、不安に振り回せれることが減り、小さな喜びが増えていった。

だけど自分の心は根深くて、何度も波はやってきて、その度に思考に巻き込まれ、感情に飲まれてしまう。

12月なんて、もういい加減いいだろうと思っていた母親との関係について、わっさわっさ出てきて、くたくたになった。。
心が暴れまくって、しまいには風邪までひいて本当に参った。

それでも、心がとても静かで安定している時間も長くなり、思考にどっぷり使っている自分、過去や未来に思考を奪われている自分、「いま」を見失っている自分に気がつくことができるようになってきたことは、とても大きな進歩だと思う。

これまで、常に「~でなければならない。」という強迫観念に追われるように生きてきた。

「ご飯をちゃんと作らなければ。」
「掃除をきちんとしなければ。」という日常生活から、
「毎日が充実していないと。」
「綺麗でありつづけないと。」
「尊敬されるようでないと。」
「周りの空気をよく読んで、楽しませないと、笑わないと。」という仕事や友人関係とのやりとりまで。

常に何かをしてないと、常に考えてないと、常に良くあり続けないと。

この強迫観念の呪縛から離れてきている今、自分がとってもだらだらで、ゆるゆるで、それはそれは見事にいい加減な自分であったことに気がつき、そしてとても笑えた。

そんなぐうたらな自分が好きだし、そんな自分になってからというもの、あれだけ気になっていた他人の言動がそんなに気にならなくなり、イライラすることがほとんどなくなってた。


好かれるために、愛されるために、何かをしないといけなくて、素晴らしい人間でないと、嫌われて、愛されないんだと思ってた。

でもそうやって頑張れば頑張るほど、不安や心配や怖れは増えていくだけだった。

そうじゃなくて、何もしなくても、どうであってもよかった。

私は私のままで、そのまんまで愛されている。始めから。


例え周りに愛されなくても、私が私を大切に思うし、愛している。

それで十分なんだった。



2014年。

こうなりたい、ああしたい。そんな大きな目標が実は全然ない。

ただ、何かと大きな変化がありそうなので、もっと自分にくつろいで、目の前にある「いま」を大切に生きていこうと思う。

2013年、お世話になりました。

2014年もよろしくお願いいたします。
  
     
ちょうど、去年の今日。


11月11日。


この日から。


日記というか、備忘録というか、あまりに混乱をきたしている自分の感情を
落ち着かせるために、整理するために、ノートに、色々と書き出すことにした。


それから1年。


そのノートは、今は7冊目。




毎日のように、時には仕事もせずにひたすらに書き続けていたけれど、
最近はだいぶ書くペースが落ち着いてきた。

それでも心がざわつくときは、このノートが助けてくれる。


読み返すと、何度も何度も、呆れる位に同じようなことを書き連ねてる。


何度も「こうするんだ!」って決めては、それが出来なくて、自分を責めたり。

何度も何度も「自分はどうしてこうなんだろう。」って、考え込んだり。

一生懸命、「大丈夫、大丈夫。」って自分を励ましてみたり。

時には、あまりにも激しい怒りをぶつけてみたり。


時には怒りのあまりに、紙が破れて。

時には、書きながら泣きじゃくって、字がにじんだり。

嬉しかったことを、ニヤニヤしながら書いてみたり。


変わりたい。

変われない。

一歩進んだかと思ったら、2歩も、3歩も下がってる気がして。


でも。


こうして考えてみると。

それはあまりにも微々たるもので分からなかったけど。

確かに、少しずつ変わっていってた。


それは螺旋階段のようで、何度も同じ景色を見ていたけれど、

少しずつ、上に登っていってた。


私は、一生懸命に、その時の「今」を、必死に生きていた。


1年たって。

相変わらず、1年前と同じことで悩んでたりする。

1年前とは違う悩みが出来てたりする。


でも。

1年前には気がつけなかったことに、沢山気がついた。

1年前には許せなかったことが、許せるようになった。


これからも、何度も書き連ねながら、螺旋階段を登っていくんだろうなーって思う。


ただ。


死ぬまでにはこのノート、燃やして処分しとかないとな・・・。


  
     
仕事で。

単純なんだけどちまちまと面倒くさい仕事を頼まれてて、

他に自分で色々とまとめてみたりやりたいことがあったのと、

後回しにすると更に面倒くさい作業だってわかっていたので、

さっさと片付けようと、ひたすら黙々と頑張ってた。


そしたら、照会電話が立て続けにかかってきて邪魔されて、

他の人から、他のちょっと面倒くさい作業を頼まれて、

隣の子がまだ分からないことが多い子で、照会電話をその子が取る度に

あれこれと説明して教えないといけないのに手をとられて、


極めつけは。


そんな中でもあくせくしながら黙々と頑張ってた、メンドクサイ仕事が、

あとちょっと!ってとこに、それを頼んできた人が、

「これ、もう1回修正~。」

なんてことを、ほざい・・・言ってきたので、



ずっと隠れてたイライラが、とうとう我慢ならず顔を出してきた。

そして思わず、あまり褒められたものではない態度をとってしまった。


その後は案の定。

そんな態度をとってしまったことや、

イライラしてしまう自分を自分で責め始めた。


そして、責めてる自分も責め出すという、

非常に虚しいループがはじまったので、

このままだとまずいなぁと思い、席を離れ、

虚しいループをぐるぐるしてた。



が。


ふと、思った。



何故、イライラしてはダメなのか。

イライラすることにイライラして何故悪いのか?



相手に対してとってしまった言動は、反省する。良くなかった。

だからって、イライラしちゃいけないってことにはならない。



イライラすることはよし。

それを他人への攻撃に向けるというのは違うので反省。


ただ、それだけじゃないか。


ああ、そうか。

なんだ。


私は、ずっと、イライラを感じることがいけないんだと、

そんな自分の心が狭い、そんな自分が間違っていると思い込んで、

自分を責めて、自分はダメなんだと思ってきた。


どうしてイライラを感じてしまうのか、何に反応してイライラしているか。

それは何となく分かってた。イライラパターンも見えかけてる。


それなのに。


私は、そのイライラしてしまうこと、そんな自分を理解しようとはせず、

イライラしてしまう自分が、イライラ原因に反応してしまう自分が、

嫌で、許せなくて、そんな自分を消してしまおうと必死になっていた。


焦点をあてるところが違った。


どうしたらイライラしない自分になれるか、

イライラしないためにどうしたらいいかってことに

焦点をあてるのではなくて。


イライラときに、イライラという感情に巻き込まれることなく、

その感情を認め、受け止め、手放すにはどうしたらいいかってことに、

焦点をあてることが大切だったんだ。


先週半ばからちょっと心の中がうまく整理できなくて、

友達に助けてもらいながら整理していたことが、ようやく繋がってきた。


私は、ただ今その状況に、イライラしている。

ただ、それだけだったんだなー。

で、そうならそうで、それでいいんだ。



まぁそれでも、イライラするのはやっぱり嫌なんだけど!


でも。

何だか、少しほぐれた。

  
     
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