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   ただよいながら…
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8月末。

友達からの

「octobreにとって幸せってなに?」

という問いかけが、


私の中にまだ残っている心の鎖を解く鍵となった。



しかし、8月下旬の気候の急な変化と、

仕事が猛烈に嫌モードになったのが重なったこともあって、

何ともきつい3週間だった。



以前のような、みぞおちのあたりがきゅうっとなるような不安とか、

どうしよもない悲しみとか、怒りとか、そういうのは全然なくて。


でも、逆に思考や感情が全く動かなくて、考えるのがめんどくさくて、

身体や頭がひたすらに重かった。


仕事はすっかり早く終わって帰っても、部屋で大の字になったきり動けない。

朝も起きられなくなって、ご飯の支度も本当に面倒くさくて。

とにかく動けない。


気持ちばかりが焦ってて。


今までのようにノートに気持ちを書き連ねることもなく。

というか、書けず。書いてても出てきそうで出てこなくって。


それくらいに、向き合いたくないのか。

気がつきたくなかったのか。


それでも懲りずに。

つらつらと書き連ねながら、思いを巡らせながら。


ようやく気がついたこと。



私は何をしても、何を感じても、何を考えても。


24時間365日。


私を否定し続け、責め続け、裁き続けている。


褒めることもなく。認めることもなく。許すこともなく。



例えば誰かを純粋にいいなって褒めても、

「そうやって相手に嫌われないようにしてるだけに違いない。」と、

自分で褒めておきながら邪推し、そんな私は最低だと責め、


まして誰かを妬んだり、意地悪なことを考えでもしたら、

「こんなんだから、いつまでたっても成長できないんだ。ダメなんだ。」と、

自分を責めて、落ち込む。


ちょっとしたことに「幸せ」を感じられなかっただけで、

「幸せに気がつけない、感謝できないような女なんて。」と、

自分に失望している。


何をやっても責めてる。何をやっても拗ねてる。何をやっても裁いてる。


どうして。

どうしてここまで自分をこきおろせるのか。

どうしてこんなに自分を苛めるのか。



何というか。

私って、かわいそう。


だけど。

こんだけ責められまくりながら、それでも生きてる。


私って、強い。


いや、図太い。




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この1週間。


仕事がもう、嫌で嫌で嫌で嫌で。



というか。



「マジで、くそおもんない!」

(言葉の汚さは百も承知です。人間性が現れていることも承知してます。)



な状態で。

時折あまりのつまらなさに、気が狂いそうで、久々にすんごいイライラ。



しかしそれにしても。。。



忙しければ忙しかったで、くたびれ果てて心と身体を病み。

落ち着いて元に戻れば戻ったで、このあり様。



まぁそうなるんだろうな、とは思っていたけれど。


やっぱりそうなって。


もはや呆れるばかり。



職場の人に。


「我慢せんとね、楽しいことはないんよ。」



そうなの?


我慢って何?


我慢が足りない。

逃げているだけ。

面白くないのは、みんな同じ。



何で?

我慢しないといけないのは何で?

お金もらってるから?

お金もらうことって我慢することなの?


言ってることは分かる。

分かりすぎるくらい分かる。


でも。


楽しみながらお金もらうって出来ないの?


あれ?

いや・・・?

違うか?


今、目の前の仕事を楽しむことが出来ないことが問題なのか?


今の仕事を楽しむか。

辞めるか。


それしかないのかー。



私。


どうしよう。


どうあることが、私にとって楽しいことナンダロー。



自分の心の中の問題が落ち着いてきたからカナ?
(って私が勝手に問題化してただけだけど)


次なる課題がやってきたようなかんじ。



さ。


ようやくスタート地点にたったようですし。



この先、どうしますか?って。



どうしよう。


本当に。


  
     
「存在する価値がない」

「1人になりたくない」

「1人で生きていかなければならない」

色々と思って、思い込んで、縛り付けていたけれど。


最近、気がついたこと。

まだやってたんかいっ!って言われそうですが。(誰に?)


ええ。

ずいぶん、楽に、穏やかに、平和に、楽しく生きていますが。

それでも、まだぐるぐると考えてたり。


で。


改めて、そんな中で気がついたこと。


どうやら、私の人付き合いの根底には。前提には。



自分は、嫌われる存在。


というのが、在るみたい。



それはきっと、母親からしょっちゅう、

「そんなことしたら、嫌われるよ。」「そんなんだから、嫌われるんよ。」

って言われてて、

また厄介なことに小学校、中学校で色々と失敗して、実際嫌われてしまった経験が、



私は、嫌われる存在である。


っていうデフォルトを、


言われるたびに、

友達関係で失敗するたびに、



どんどんより強固にアップデートしていったんだなーと。



そして、私がここで頑張ったのは、嫌われる自分をより強固にするのではなく、


嫌われないために、

好かれるために、

相手の期待に応えるために、


明るくあろうと、

賢くあろうと、

空気を読もうと、


頑張って、

頑張って。


でも、結局は独りよがりで、1人で勝手に頑張っているもんだから、

1人で勝手に疲れて、悲しくなって、怒りをためて、

自分にがっかりして、責めて、罪悪感もたくさん貯めこんで。


心も身体もクタクタになって。

身体壊して、心も壊して。



でも。


私は確かに、嫌われたこともあったし、

今でも私のことを嫌いな人って、きっといる。


だけど。


だからって、「私=嫌われる」 ではなくて。


もう、「私は嫌われる存在」だという思い込みを、いい加減おかしいんじゃないの?って、疑ってもいいんじゃないかと。


そんな前提を、デフォルトを。

どうにかデリートしたり、上書きできたりしないかと。


「嫌われる存在」という前提をもとに、考えたり、悩んだり、行動したりするのは、ちょっともう疲れちゃったよね。


いやはや、思い込みっていうのはすごい。

その思い込みで31年生きてきたから、その思考のクセもなかなか強固で。

その思い込みがこれまでの私を守ってきてくれたんだけど。


でも。

もういらないんですよ。


今まで、お世話になりました。


  
     
この土日、従弟が来てた。

彼のファンが、私の地元であるコンサートに一部出演するのを見に。


私も彼に頼まれ、コンサートに付き合ったのだが、

5時間にも及ぶ長丁場で、感動とうんざりで終わった。


ただ、予想以上に感動する場面もあり、

ステキなパフォーマンスを見せてもらったし、

これを無料で見させてもらえたのは、ラッキーだと思う。


感謝。


で、従弟は私の家に泊まって、今日は祖母と一緒に、祖父のお墓参りに行った。

彼はもう何年も祖父のお墓参りに行ってなくて、一生懸命に祖父のお墓を磨いていた。

そんな2日間。


イベントそのものよりも、考えること、気づくこと、疲れることが多かった。



私も本当によくしゃべる。うるさいと思う。

だけど、この従弟。


私の3倍以上はしゃべる。


こっちがちょっとメールしたいってメールしていようが、

PCチェックしていようがなんだろうが、構わず話してくる。

あげく、動画まで見せようとしてくる。

おしゃべりとかを超えて、語ってくる。


私の話を聞かないとかでもなくて、私の話も聞いてそれに対してもコメントをくれる。

だから一方的に自分の話ばかり、というわけでもない。

それに彼は彼で色々と苦労をして頑張ってるのも知ってるし、

根は素直で純粋で、明るくてとってもいい子だ。


だけど、そうなんだんだけど、


「こいつは、いつまでしゃべり続けるんだろうか。。。」


だんだんイライラしてきて、最後はもうグッタリした。



でも、他人は自分の鏡だという。



本当に、その通りで。

傍からみたら自分もきっとこんな感じなんだろうなぁ・・・と凹んだ。



何でこんなに彼にイライラするのか。

彼の話とか、彼のおしゃべりにイライラしているんじゃない。


話を聞いてほしい。

自分を理解して欲しい。

自分の意見は間違っていない。


彼の話からにじみ出てくるそのサイン(私が彼の話をそう受け止めている)。

そこにきっと私は反応している。



私が、そうだから。

そして、そんな自分を否定しているから。嫌だから。



従弟で、しかも1コ下で従姉弟たちの中でも仲がよかったから、

ある意味他人よりも境界線を越えて自分を出すし、出してしまう。

だからこそだったのだろう。


まざまざと、自分の姿を見せられた。



しかし同時に。


自分の恋人に、深く感謝した。

私の恋人は、従弟とは真逆でそんなにしゃべらないし、穏やかというか静かというか。

しゃべらない訳ではないし色々話すけれど、色々と考えて話すのか、口数が少ない。


それが会話のキャッチボールやコミュニケーションが

うまく出来ていない気がして、もどかしい思いを何度もしていた。


でも、私の時に止まらないおしゃべりを聞いてくれて、

そして自分も口数が少なくても、話す時はちゃんと話す。



もう、それ以上何も必要のないくらいに、十分じゃないかって思った。



私は従弟と同じように、果てしなくおしゃべりだ。

でも、おしゃべりでうるさい男は無理。

私もあれこれと偉そうに語るが、同じように延々と語り続ける男は無理だ。

イライラする。

私が十分勝手なことは分かってる。


でも。

私が2人いる必要はない。


しゃべり続け語り続ける従弟の話を聞きながら、恋人に感謝した。

そして、それに気付かせてくれた従弟にも感謝。


でももう、ホントーに疲れた!

2日、いや1日で限界。

そして。

帰りに実家に寄ったら、母親の言葉を、いつもの条件反射で正面から受けてしまって、またぐったり。


帰りにすっかり落ちてしまって、久しぶりに泣きながら思った。


親、つまり今ある私の家族、そして祖母や親戚とかは、

私にとっては癒される場所でもなくて、

無条件で受け容れてもらえる場所でもなくて、

たたひたすらに、母親や祖母、親戚という鏡を通して、

自分の姿をまざまざと見せ付けられて、

条件反射でつい後ですごく自分でも嫌になるような言動をしてしまって、

負のループに入り込んでしまいかねない、

危険な場所でしかないんだなって痛感した。



でも、そこから自分と向き合って、自分を受け容れて、認めて、許していく。

嫌な自分も、頑張ってる自分も、汚い自分も、真面目な自分も。


どこかでまだ、親に甘えてて、期待してて、拗ねてる。イジけてる。

だから、いつまでたっても抜け出せない。


もう、いい加減にしなきゃ。


疲れたなぁ・・・。


  
     
「そんなことしたらバチが当たるよ。」


私に限らず、他の人も子どもの頃にそんな風に言われたことはあるだろう。



私は、この「バチが当たる」ということに、異常なまでに執着?恐怖?を抱いていた。


幼稚園の頃には、何かほんとにちょっとしたいけないこと、ずるいこととかするたびに、それを神様が見ていて、


「バチが当たったらどうしよう。」


本気で思ってた。

本気で恐れていた。


それは行為だけでなく、自分の思考、感情、妄想に対しても。


「神様は、今わたしが考えたずるいことも全部わかってるんだ、どうしよう。」

「ああ、また悪いこと考えてしまった。どうしよう。」

「こんなことやってしまった。神様は絶対に見ている、どうしよう。」



何か特別に信仰を持っているわけではないので、「神様」はあの宗教の「神様」とかじゃなくて、ただ絶対的なもの。


自分がやったことを見張られていて、考えていることは全てお見通で、そしてそれらに対してしかるべき制裁が与えられる。


中学生になっても、高校生になっても、大学生になっても、社会人になった今でも、この思い込みがずーっと根っこにあった。


私の思考、行動、感情の全てにこの前提があった。



でも、バチを当てるのは、私を見張っているのは、私に制裁を与えるのは、


「私」だった。


神様は、他の誰でもなくて「私」だった。



・・・・・・。



あれ・・・?


私、神様?


え?


あれ??



バチを与えるのも「私」

じゃあ、許すことができるのも「私」


私を見張るのも「私」

じゃあ、私を見守ることができるのも「私」


私を不幸にするのも「私」

じゃあ、私を幸せにするのも「私」



そうかー。

神様は私だったんだー。


いやー、完全に逝っちゃってるって思われそう(苦笑)






  
     
今週の木曜日。

近くの席の人たちと軽くおしゃべりをしていた。
どういう経緯でそういう話になったかは覚えていない。
子どもの頃の兄弟達とのやりとり話だったか。

隣の人が妹とよく喧嘩していたとか何とか。

「あー私も弟を叩いたり、口げんかしたりしてました。」



一瞬にして過去の記憶がフラッシュバックした。



私には5歳下の弟がいる。可愛くて仕方がない。


でもそれは今の話。


子どもの頃は、本当にひどかった。

叩いたり、蹴ったり、ひっかいたり、噛み付いたこともあった。

散々馬鹿にしたし、私の言うとおりにコントロールしようとしてた。

母親や世の中を通して自分の中に身に付けた、「こうすべき」 「こうあるべき」を徹底的に弟にぶつけていたように思う。

遊びたいのに弟の面倒を見なければならなくて、そのせいで遊ぶのを我慢したり、弟を連れて行ったりしないといけなかったことも多く、でも母親に抗議も反抗もできず、その怒りや苛立ちを弟にそのまんまぶつけていたのかもしれない。

私は弟を叩くことで、泣かすことで、馬鹿にすることで、スッキリしていたのは事実だ。


その時の、部分部分ではあるが、弟に攻撃して泣かしている自分を思い出した。


何てひどいことをしたんだろうか。

どんなに、痛かったんだろう。

一体、どれだけ弟を傷つけてきたんだろう。

自分のストレスをどれだけ小さなあの子にぶつけただろう。


弟をいじめて、泣かせる度に感じてたのに、気がつかない振りをしてきた罪悪感。

ずっと、そこから目を背けて、自分を正当化してきた。

そして、それこそ自分は被害者だと言わんばかりで自分の辛さ、淋しさ、悲しさ、怒りを訴えてきた。


だけど。


私も十分に加害者だった。


私は、ずるい。

私は、弱くて、おろかで、傲慢で、卑怯だった。


弟以外にも沢山の、色々な人を、大切な人を傷つけてきた。


友達に意地悪した。

友達を傷つけた。

友達に酷いことを言った。

友達を独り占めしたくて、間違った行動をとったりもした。


結果的に、嫌われたり、一人ぼっちになったりした。

当然の結果だった。


だけど私は自分のしたことよりも、自分が嫌われたこと、一人ぼっちになってしまったことを嘆き、自分を哀れんだ。

でも、自分がしたことが心の中から消えたわけじゃなかった。

心の奥では罪悪感がどんどん積み重なっていった。
でも、見ない振りをした。


私は昔から人付き合いの距離のとり方が下手で、今も人付き合いで相手の反応ひとつであれこれ思い悩んで、神経をすり減らす。

幼稚園~中学生にかけての友達関係のつまづき、失敗が原因だということはずっと分かっていた。

だけど、その時を思い出して「あれは私が悪かったから・・・。」なんて分かったような風にしてたけど、本当のところ何も分かっていなかった。


どれだけ相手を傷つけていたか。

どれだけ自分をごまかしているか。

どれだけ罪悪感を積み重ねているか。


だから、ずっと苦しかったんだ。


自分の罪を認めないから。

自分のどうしようもない弱さを、ずるさを、汚さを認めないから。

どれだけ愚かで、いかに卑怯であるかを見ようとしないから。


明るくいようとしても、本当はそんな人間じゃない。

笑っていようとしても、笑う資格なんてない。

幸せを願っても、幸せになってはいけない。


そうやって、自分を認めず、許さず、裁き続けてきたんだ。


泣きそうになるのを抑え切れなくて、席をたった。

家に帰っても、頭がガンガンするくらいに泣いた。


泣いて心で詫びてどうにかしようとする自分が嫌だった。

自分の愚かさが嫌だった。

自分の弱さが情けなかった。

被害者ぶってて、とんでもない加害者だった自分が恥ずかしくて仕方がなかった。


でも、それでも・・・。


どんだけ嫌でも、どんだけ目を背けたくても、


それが私だった。







  
     
自分の中に溜め込んでいたエネルギーがボロボロ出てくる。→

でも一方で仕事での照会電話だったり、人とのやりとりだったりで、
今までイラッとしたり腹を立ててたりしていたことに対して、

そういった感情をあまり抱かなくなってきた。

瞬間的に腹が立ったり、イライラしても、すぐに戻れる。
長引いても、その場を離れるなりして冷静に対処できる。


日々の出来事なんてのは別にどうってこともなくて、ただただ、自分の怒りや苛立ちといった溜め込んだエネルギーを、何とか心の奥から出そうとするためのきっかけに過ぎなかったんだなと思う。


そんな感じで、日々の生活はもう凪のようにおだやかで、

自分が抱えていたものも随分と整理できてきている。


でも、何と言うか。


まだもうひと塊ある。

そして、それが何なのか、本当は殆んど分かっている。


だけどどうもそこに踏み込みたくないらしい。

思考が止まる。

恐らくキーとなるだろう記憶を思い出そうとすると、止まる。
その記憶の事実は思い出せるけど、その時の思考や感情が出てこない。


嫌らしい。
私としてはさっさともうすっきりさっぱりしたいのだけど。


でもそこを無理矢理こじあけても、いいことにならないので、
何となくボーっとしながらとりとめもなく考えたり、ノートに書いたり。


そんな中で、ふと思ったこと。


私って、本当はかなり「静」の人間なんじゃないだろうか。

色々とあったおかげで、空気を細部まで読むスキル、ある出来事を面白くしゃべるスキルを身に付けた。

何より本人が、「しゃべらないと。」 「面白い話をして場を和ませないと。」 「好かれないと。」 「嫌われないようにしないと。」って必死だったから、そのスキルを余すことなく使いこなした。

よくしゃべって、笑って、明るくて、話題豊富な私。
いつも楽しそう。悩みとか無さそう。人生楽しんでそう。


だけど、しゃべらなくて、笑わなくて、どこか冷めていて、1人でこもっている方が、
実は落ち着く。
家じゃテレビも音楽もつけないし。(←関係ないか)


それが、元々の私(気質?)なんじゃなかろうか。


その根拠は?と言われても分からない。

そんなの皆そういう面があるんじゃない?と言われたらそりゃそうだ。


結局、どっちの私も私なんだろう。


ただ、何だろう。


私は別に常に話題がある訳じゃないし、
楽しいことをいつも見つけて考えている訳じゃないし、

しゃべるのだって嫌いじゃないけど、しゃべりたい時に、しゃべりたい人としか、
本当はしゃべりたくない。



話題がなくてつまんない女でもいいんだ。
てか、そんなに話題ないし。

毎日楽しそうって言いたい人には言わせておけばいいんだ。
だからって、本当に楽しそうに生きなくていいんだ。(楽しいけどね)


別にしゃべるの得意だからって、そんなしゃべんなくていいんだ。



何だか、楽に生きていける気がした。




  
     
自分の人生が、思い込み100%であったこと。→

母親へのわだかまり、怒り、淋しさや悲しさを、途方もない位に抱えていたこと。→

自分を自分で鎖でがんじがらめにし、自分を見張り続け、裁き続けてきたこと。→


色々なことに気がついて、もがいて、ぐるぐるしている。


だけど少しずつ。少しずつなんだけど、

自分を縛っていた鎖をゆるめて、ほどいて、
自分の心が少しずつ自由になってきているのを、感じる。


しかし一方で、自分を縛っていた鎖がゆるんだ隙間から、

これまでずっと奥にしまっていたモノが、
今までぎゅうぎゅうで外に出て来れなかったモノが、

ちょっとしたきっかけでポロポロでてくる。



怒り。

淋しさ。

悲しみ。

苛立ち。



ある昔の出来事を思い出して、その時の感情が出てくる、というのなら整理しやすいし分かりやすいんだけど、

そうじゃなくて。


突然に、そしてすごく些細なことをきっかけに噴き出てくる。


例えば、PCが遅いとか、仕事で気分を害するようなことを言われたとか。
ホントならイラつくことでもないような、どうでもいいレベル。

それらはこれまでもあったことだし、よくあること。

いつもは単純にイライラして、時に「イライラするわー。」って言葉にしたりして終わるようなこと。


だけど、それで治まらなくなったりすることがある。


抑えようのない、表現しがたい怒りや苛立ちが、沸々と湧き出てくる。


もうそれは「PCが遅いから」とか「ムカつくこと言われたから」とかから来るイライラや怒りを遥かに超えた、



腹の底からマグマのようにあふれ出てくる感情。

いや、感情というかもうエネルギーと言ったほうがいいのかも。



この前はとうとうそのエネルギーを抑えられなくて、家で暴れ狂った。
(いやー家で良かった。てか家だから出来たんだけど)


汗だくになって、半泣き状態になって、息も絶え絶えで。

その姿は間違いなく、狂気でしかなかった。

どこかで頭はすごく冷めているから、自分でも「何やってんだろ」ってすごく呆れているんだけど、止まらない、止められない。(かっぱえびせんではなく。。)


エネルギーを出し切ったときは、放心状態。
さっきまでの激しさが嘘のように、心はすごく大きな静けさだけ。


このレベルまでにエネルギーが爆発することは滅多に無いけれど、
最近はこうやって、鎖の隙間から、壁の隙間から、あふれ出てくる。



この怒りや苛立ちの感情やエネルギーがポロポロ出てくるようになったのは、

自分の中から出てくる感情が、例えどんなにネガティブなものであっても、決して否定せず、受け止めようとし出してから。

少しずつだけど、自分を許すようにし出してから。


ずーっと出てきたかったんだなー。

ずーっと見ないふりをして、すべて否定して、狭い心の奥にぎゅうぎゅうに、ぱんぱんに押し込めてきたんだなーって思う。


でも、そうしないと私は生きていけないって思い込んでて、自分を一生懸命に守っていたんだなーって思う。


自分にとても可哀想なことをしていた。

だけど、一生懸命に自分を守ろうとしてたんだよねーって思うと、本当によく頑張ったなぁって思う。


こうやってぎゅうぎゅうに押し込めていた色々な思い込みを、沢山の感情を、大きなエネルギーを、


一つずつ受け止めて、認めて、味わって、解き放って、


私は自由になっていく。


初めから自由なはずなんだけどねー。



  
     
5月頃から、毎朝5時~5時半くらいに起きている。
(平日のみ)


ネットしたり、いつも書いているノートに色々と書き込んだり。
今まで夜にやっていたことを朝に持ってきただけなんだけど。


呼吸や瞑想に関心を持ち出してからは、簡単な瞑想も始めた。
目が覚めてなくて、瞑想しながら寝てることも多いけど(--;
そもそも瞑想として正しいやり方なのかもよく分からんけど。



ちなみに、興味ないかもしれないけど、

朝6時25分からNHK教育テレビでやっている「みんなの体操」をやって、
その後にあるピタゴラスイッチに感動して、
目覚ましテレビの「紙兎ロぺ」に笑わせてもらう。

どれもオススメなので、是非見てみてほしい。



ノートに色々書くのは、私には本当に頭の整理に役に立ってて、
朝でも仕事中でも夜でも、いつでも書くんだけど、

朝は手に力が入らなくて、汚い字がさらに汚くなるし、書きづらい。


だけど、余計な雑念がないのか、自然な気持ちや考えが出てくる。


「母親になりたくない」という思い込みに気がついてからしばらくして。

自分がじゃあどうなりたかったのか、気がつくことがあった。



私は、家族の帰ってくる場所でありたい。
家をキレイにして、ご飯を作って。
夫を支えて、子どもを育てる。


帰ってくる夫や子どもを「おかえり」って出迎える。
夫と語りあう。
子どもの話を聞く。
休日は家族と過ごして、遊びにいったり。


私は結婚して「妻」となり、子どもを産んで「お母さん」になりたかったんだ。



ああ、そうか。
そうだったんだ。


世の中不景気だから、自分のキャリアを築かなければとか、結婚してもどうなるか
分からないしとか、そんなことにばかり囚われていて。

1人で生きていく生活力を身につけなければ、今のままじゃ全然ダメだって不安に
支配されていて。

何よりお母さんのようになるのが嫌で、怖くて。


夫をバカにするようになるかもしれない。
嫌いになるかもしれない。

子どもを虐待するかもしれない。
コントロールするかもしれない。

毎日浮かない顔をした日々になるかもしれない。

いつのまにか母親のように子どもに愚痴って心配かけて、
罪悪感を根付かせて、身動きできなくさせてしまうかもしれない。

「あんなにしてやったのに。」って自分に見返りを期待して、
「育てた意味が無い。」って言ってしまうかもしれない。


嫌だ。
そんなのダメだ。
繰り返してはいけない。
私は自分をコントロールできる自信がない。
私はきっと母親みたいになってしまう。


それじゃあ、夫が、子どもが、そして私が可哀相だ。


だから、はじめから望んじゃいけない。
だから、ちゃんと1人で生きていけるように。
だから、はじめから結婚とか家族とか、そんなものに夢をみないように。


私に、そんなことを夢見る、そんなことを望む資格なんてない。


あまりにも自分に自信がなくて、あまりにも臆病だった。


あーもう、本当に馬鹿だなー。
1人で考え込んで、思い込んで、閉じこもって。。



前は言えなかった。

「お母さんのようになってもいい。」



今は、言えるようになった。

「お母さんのようになってもいい。」



絶ーー対!になりたくないけど。

すんごく嫌だけど、ものすごく怖いけど。


でもきっと、きっと大丈夫。
きっと気がつける。

そこから直していけばいい。


完璧じゃなくていい。
上手くいかなくたっていい。

そして、そんなに色々なこと決め付けなくていい。


もし、この先結婚することが出来たら、子どもを産むことができたら、


専業主婦になることもあるかもしれない。

正社員でずっと働き続けているかもしれない。

パートだったり契約社員で働いているかもしれない。

もしかしたら、自分で何か仕事しちゃってるかもしれない。



どれが良くて、どれが良くないなんてない。

どれが出来て、どれが出来ないなんてない。



その時、その状況で必要なこと、出来ることをやればいい。選べばいい。


何も失われない。

何も損なわれない。




  
     
「ずっと1人になりたくない」って思ってて。
でも、「1人で生きていかなければならない」って思ってて。→ 

同時に、「母親のようになりたくない」って思ってて。
そして、「母親のようになってはいけない」って思ってて。→ 


「母親のようになりたくない、なってはけない」って思うのは分かるんだけど、

「1人になりたくない、一人で生きていかなければならない」って、
どうしてそんなに頑なにその思い込みを握り締めているのか、
握り締めた手を放そうとしないのか、自分でも分からなかった。


ある人が言った。


「お母さんの姿を見ていたからじゃない?」



バラバラだと思っていたものが、一つになったような。
よく小説とかで使われている、「欠けていたパズルのピースが全て揃った」というか。(使われてなかったらゴメン)


不思議な感動を覚えた。


母親のいつも1人の姿、孤独な姿。

誰かと仲良くなっては、近づきすぎるのか、言い方がきつすぎるのか、
いつもトラブルを起こしていた。

その度に、平気そうにしながら、きっと深く傷ついていたんだろう。

そして傷つくことを恐れ、次第に1人になったのだろう。


いつも脅迫的に家事をこなし、イライラし、
いつも自分は我慢して(と思っている)、でも耐え切れず、
家族に爆発し、攻撃し、威圧し、支配した。


そして、いつもしんどそうだった。
いつも、楽しくなさそうだった。
いつも、生きにくそうだった。


その姿に、私は無意識に色々なことを感じ、
時に心配し、時にひどく嫌悪感を抱いていたのだろう。


あんな生き方は嫌だ。
一人ぼっちだと、あんな風になるんだ。
なんて悲しいんだろう、何て寂しいんだろう。
そして、なんと恐ろしいのだろう。


それは私が勝手に母親をそういう風に見ていたんだけど、

でもその思いが、

「1人になりたくない」という思いを強固にしていったのかもしれない。


一方で、私は母親がやっぱり大好きだった。


だからというとおかしいかもしれないが、

「母親と同じように生きていかなければならない」

と心のどこかで、思ってたんだと思う。


その思いの始まりは、

「お母さんのようになりたい」

って純粋な尊敬だったのかもしれない。


しかし、その純粋な思い、憧れは、やがて自らを自らで縛りつける、
苦しい思い込みに変わっていった。


お母さんより幸せになってはいけない。
お母さんの前で、そしてお母さんより楽しそうであってはならない。
私も「1人で全然平気」ってお母さんに見せないと。

私だけ幸せになって、私ばっかりみんなと楽しんで、
私だけがやりたいことやっていたら、みんなと遊んでいたら、

お母さんは本当に一人ぼっちになってしまう


だから、

「1人で生きていかなければ、その強さを身につけなければ」


私は、母親に自由に生きて欲しかった。
犠牲に思って欲しくなかった。

「もういつ死んでもいい」とか、
「特に生きている意味ないし」とか、
思い通りに動かない子どもに「育てた意味がない」とか、


そんなこと言われるたびに悲しくて、腹立たしくて、
私が生きていることがいけないんだと苦しくて、
「だったらさっさと死ねばいいのに。」って思って。


母親のことを心配とか言いながら、

結局自分のことしか考えていない自分の心が、嫌で嫌で嫌で仕方なかった。


「母親さえいなければこんなことは思わないのに」


もう、最後はすべて母親のせいだと思ってた。
そして、母親のようにならなければ、きっと大丈夫。
きっとうまくいく、幸せになれる。


だから「母親のようになりたたくない、なってはいけない」って。



分かっている。


全ては、私が1人で「母親」という虚像を大きく膨らまし、
とても大きな「思い込み」を築き、自分で縛り付けていただけ。



でも、見えなかったものが、見えてきた。

いまから。
ここから。




  
     
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