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   ただよいながら…
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愛されていないのかな?

愛していないのかな?


そうなの?


愛されなければいけないのかな?

愛さなければいけないのかな?


そうなの?



よく分からないのです。




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ある日、ナイナイアンサーっていう番組で遠野なぎこさんのカウンセリングを
心屋仁之助さんがしたことを知り、ネットでその動画を探して見てみた。
 
 
この遠野なぎこさんは、下手に書くと名誉毀損で訴えられるかもしれないが、
なかなかいっちゃった人で。
 
母親との関係によってすっかり心を閉じて捻じ曲げてしまって、
孤独と怒りと寂しさと悲しみを抱えまくって、
それをエネルギーに何とか生きてきているって感じの人。
 
母親への思いを書いた本も読んだけど、(立読みで。すんません。)
読んでても、何だかもう乗り越えました風にしていながらも、
辛さがビシバシと伝わってきて、途中で読めなくなった。
 
彼女ほど私と母親の関係はひどくないけれど、
自分の感情とシンクロしてしまったんだろうと思う。
 
 
カウンセリング内容とか詳しく知りたければ、
是非動画を探して見てみてください。(違法なのかな?)
 
 
遠野なぎこさんと心屋仁之助さんとのカウンセリングを、
私と心屋さんのカウンセリングなんだと思うことにしてみた。
 
 
心屋さんが、「『お母さんみたいになってもいい』って言ってみて」って言った。
 
 
遠野なぎこさんは言えなかった。
言おうとするんだけど、口が動かない。
 
 
そして私も、言えなかった。
 
どうやって頑張って口を開こうとしても言えない。
言葉は出てこないのに、涙はあふれ出てくる。

 
驚いた。

 
その後は、遠野なぎこさん号泣。
私もPCの前で号泣。
 
 
カウンセリングは続き、彼の言う言葉を遠野なぎこさんが復唱し、私も復唱する。
 
 
終わって、しばらく放心状態。
 
 
ああ、そうか。
 
 
母親のようになりたくなかったんだ。
 
母親みたいになるのが怖かったんだ。
 
母親のような人間になってはいけない。
 
 
ずっとその恐怖を抱えて、自分を戒め、裁いてきたんだ。
 
 
だけどイライラしたり、人に冷たくしてしまったり、相手を思い通りにコントロールしようとしてしまう。
 
そこに母親の姿を見て、果てしなく落ち込んで、自分を裁いてた。
 
 
これではいけない。これじゃダメだって。
もう無意識に。自動的に。
 
 
母親のようになってはいけないって、ずーっと自分を見張ってて、
母親に似たところがあったら、嫌なところだったらもちろんのこと、
例えそれが良いところであったとしても、

そんな自分を許せなかった。
 
 
許せないから、何をやってもダメで、いつも完璧を求めて、
でも出来なくて、益々自分を許せなくなっていた。
 
自分だけじゃなくて、周りの人たちも許せなくなっていた。
 
 
その一方で自分を産んでくれた母親を、感謝どころか
そこまで疎ましく、嫌悪してしまうことへの大きな大きな罪悪感。
 
 
その罪悪感が、私を母親にしがみつかせていた。
 
 
いつも鬱々としている母親を助けなければ。
 
いつキレて無視されるかわからないことに怯えながら、
 
母親が喜ぶことをしなければ。望むような会話をしなければ。
 
 
 
母親のようになりたくない。
 
親なのに、そんなこと思うなんて、何て酷い娘だろう。
 
 
母親と似ているところがある自分。

何て恐ろしいことだろう。こんなんじゃダメだ。
 
 
もう罰してばっかり。裁いてばっかり。
 
 
結局、母親がどうかじゃないんだよね。

確かにこれまで母は、自分の子どもだからという理由で、
私をコントロールし、抑圧し、自分の抱えきれない感情をぶつけてきていた。

それに私は怯えて、苦しんで、傷ついて、悲しんできた。


だけど今は。
 
母親が私を縛りつけているんじゃない。

私が私を「母親」という鎖で縛り付けている。

 
苦しいね。


そろそろその硬い鎖を解こうよ。

お母さんに怯えていた私は、これまでの私。

今も怯え続ける私である必要はない。

 
  
     
前の前の続き。→
(続いている感じでもないんだけどね)

自分の根っこにある思いは、
 
 
1人になりたくない。 
 
 
 
だけど、それを覆いかぶさってしまっていたのは、
 
 
 
1人で生きていけなければダメ。
 
1人で出来ないとダメ。
 
 
 
相反する、矛盾した思い。
 
だから、いつもチグハグだったんだなぁ。
 
 
少しでも誰かとつながるために、空気や相手の気持ちをよく読まないと。。
相手が求めているだろう言葉や行動を示さないと。
 
だけどそうやって誰かといると、私が実は何にも持ってなくて空っぽで、
ただのハリボテだってばれてしまう。
 
自分の意見も気持ちも、本当は分かってなくて、何にもないってバレてしまう。
 
そうしたら、きっと呆れられる。
嫌われる。
みんな去っていく。

 
1人になってしまう。
 
1人になりたくないのに。
 
 
だから、輪を乱す(と感じる)人が許せない。
理解しようとしない人が嫌。
 
どうしてみんな、話を聞かないんだろう。
どうしてみんなで共有できないの?
どうしてみんな同じ気持ちにならないの?
1人でも違ったらダメだよ。

 
だって・・・
 
そうじゃないと、私の考えが間違っているのかもしれない、ってことになる。
 
 
間違ってたら、それを誰かに指摘されたら・・・
 
一生懸命取り繕っている私が、崩れてしまう。
 
 
 
ああ何て傲慢で、何て臆病な。。。
 
 
 
だから、ある一定以上に踏み込ませないように。
 
近づけないように、近づかないように。
 
 
そうすれば、バレないから。
 
 
だから。
 
 
1人でも平気にならないと。
 
 
みんなでワイワイすること、流行に流されること。
 
そんな風になっちゃいけない。
 
1人で何にも出来ない子みたい、そんなのダメ。
 
 
流行に流されるなんて、自分がないみたい。
 
1人で何も出来ない、ご飯も食べられない、買い物も出来ない、なんて。。
 
どうやって生きていくの?
 
 
1人で生きていかなければ、1人で何でも行動できなければ。
 
自分の人生を生きていけない。
 
 
 
・・・自分が何を考えて、何を感じて、何がしたいのかも分かってないのに?
 
何がそんなに「ダメ」で自分を縛っているんだろう。
 
 
 
1人になりたくなくて、つながろうとして相手を楽しませよう、
相手の求めるように動こうって頑張って、
 
一方で1人でちゃんとしていないとって、1人で頑張って何でもやって、流行なんかに流されないで、
 
「私」ってものがちゃんとないと。
 
 
1人でちゃんと生きていけて、「私」というものがあれば、
 
きっと周りから認めてもらえて、慕われて、愛される。
 
 
そしたら、1人じゃない。
 
 
 
 
ああもう、何て無茶苦茶な結びつけ。
 
何てややこしくて、面倒くさくて、哀しい。
 
よくそこまで考えるなぁ。って私か・・・。
 
 
 
確かに。
 
私は私の人生を責任をもって生きていくべきだ。
 
誰にも、自分にさえも振り回されず、自分の足で生きている実感が欲しい。
 
もう何年も前からずーっと思い続けて求めていること。
 
 
だけど、だからと言ってそのために「1人」で何もかもを抱えて、閉じこもるのは何かが違うんじゃないか。
 
1人になりたくないのに、周りの人を批判して、拒否している。
 
そして結局1人になる。
 
 
 
本当に私は「1人」なんだろうか。
 
家族もいるし、友達や恋人、仕事の同僚がいる。
 
 
1人じゃない。
 
それに1人で行動することが根っから嫌なのかというと、
それも別に嫌だという訳ではない。
 
 
それなのに。
 
どうしてこんなにも「1人」に焦点をあてるのか。


寂しいっていう単純なものじゃない。

何かがある。

何だろう。。。


 
  
     
おかしくなり始めたのは去年の4月だが、これはもう本当にどうにかしないと。。。
と、色々と動き出したのは9月の終わりごろだったと思う。
本格的に自分を変えようと思ったのは11月の終わりだったか。
 
色々な本やblogを読み漁り、自分に出来そうって思ったワークや習慣を取り入れた。

 
何をやったのかあげると結構沢山あるけれど、振り返って私には合っていたなと思うのは次の3つ。
 
 
①書く。
 
その時思うことを、例え仕事中だろうと(←良くはない)ただひたすらにノートに書き続ける。
特に感情に関係することは、意識的に書く。
泣きながらでも書く。
眠くても書く。(これは結局睡魔に負けていた)
 
 
②アファメーション。
 
自分を肯定することばを朝、夜、ふと思い出したときにひたすら唱え、祈る。
はたからみたら完全に危ない姿でしかないが、3ヶ月も続けてくると何かが変わってきた。
個人的には1ヶ月続けただけでも大きく変化したと思う。
 
 
③呼吸。
 
①②を続けることで、感情に飲み込まれそうになっていた自分を、少しずつ客観的に観察し、落ち着いていけるようになった。
 
だけど、どうしても出てくる不安や恐怖が、全身を緊張させて、みぞおちが重苦しくなったり、動悸がしたり、といったこと続いていた。
 
それをまた何とかしようと思うものだから更にイライラしたり苦しくなるという悪循環から抜け出せなかった。

どうしたらいいのか困っていたときに行きついたのが、呼吸という非常にシンプルなものだった。

 
いつもしてんじゃん。
 
いや、そうなんだけど、そうじゃなくて・・・。
 
 
始めは鼻から息を吸って、肺からお腹(丹田といわれるところ)にまでいっぱい空気で満たすイメージ。
そして息を吐くときは口から、身体の中に溜まっている嫌な感じをすべて吐き出す感じで。(慣れたら吐くときも鼻からがいいらしい)
 
要は腹式呼吸なんだけど。
 
長く吸って、長く吐く。
 
 
劇的な変化があるわけじゃない。

だけど、静かにリラックスが出来る。
 
呼吸に集中し、身体に意識を向けることで、感情や思考のおしゃべりから離れることが出来る。
 
自分から一歩引いて、自分の心を、自分の身体を観察できる。

 
頭の中のおしゃべりに支配されていた私に必要なことだったと思う。
 
 
そうやって呼吸を意識していくと、行き着いたところはヨガだった。
 
バレエをしていた私は、ヨガの動きがなくてただひたすらにポーズをとり続けることの何が楽しいのか分からなかった。
 
ヨガがあまりに流行りすぎていることも嫌で、偏見の嵐だった。
 
 
でも、呼吸に意識を向けるようになって色々調べていくと、呼吸の感覚を正しく、そして理屈ではなくて身体で会得するのに一番手っ取り早いのは、やっぱりヨガだった。
 
うーん、やっぱりそうなるかぁ・・・と思いながら調べていくと、ヨガには調べても「???」なくらい流派があってカタカナだらけで訳分からないんだけど、

私が知りたい、深めたいと思っている呼吸や瞑想に重点を置いているヨガがあった。

 
しかも。

 
チャリで5分、歩いて15分のところにその流派を中心にヨガを教えている教師があった。
しかも自宅でやっていて、少人数で、料金も手頃で、支払システムもシンプル。
 
なんて理想どおりな。
まるで私のために用意されたかのよう。
 
きっとそうだ。
 
 
ということで、通い始めたヨガ。
 
バレエも1年近く行ってなかったので、身体がもう棒。
硬い。痛い。
 
でも、ひたすらに呼吸をしながらすすめていくポーズ。
 
頭のなかはそのポーズと呼吸のことだけ。
とても静か。(痛いよー硬いよーっていう声はうるさい)
 
終わったらすごくスッキリというかリラックスしている。
眠いくらい。実際帰ったらお昼寝しないと眠くて仕方ない。
 
 
この半年以上、頭の中だけでひたすら考え続けてきた。

これからは、自分が「いま、ここ」にいることを、心と身体、全てで感じていきたい。



ところで。。。

初めてヨガにいった日。
レッスンを終えて着替えて、携帯を見たら・・・。

バレエの先生から、「生きてますか?」ってメールが来ていた。

あの先生、絶対何かを感じたに違いない。
さすが・・・。

先生、まだ先生のエネルギーに向き合えるエネルギーが私にはまだないのです。
でも、いつかまた踊りたい。



 
  
     

「こんな思い込みを持っていたと、本当に気がつけば、その思い込みはもはや手放している。」
 
 
ある本の一文を少々言い換えた言葉。

 
 
「自分に存在価値がない →
 
ずーっとそう思い込んでいて、何をするのも自分の「存在価値」を確認することが前提にあった。
 
確かにそう気がついた。
そしていつまでもぐちぐち考え続ける自分にうんざりしてキレた。→
 
 
それでもまだ。

自分でも本当に呆れるほどに、まだ、何とも言えないしこりが残ってて、
他人の何気ない行動に思考や感情がアップダウンしていた。
 
その感情の行き着く先は、いつも

「存在価値がない」

 
気がついたはずなのに。
手放したはずなのに。
 
どうしてだろう。
いつまで被害者意識満載で生きるんだろう。
もうメンドクサイ。

なのに、私のなかの私はメンドクサイですましてくれない。
 
 
その先にあるもっと根深い思いは、思い込みは何なんだろう。
 
 
泣いて、寝て。
目が覚めて、気持ちを落ち着かせて。

いつも書くノートに思いつくままに書き連ねた。
 
 
ある一つの思いにたどり着いた。

 
 
 
「1人になりたくない」
 
 
 
 
半年以上前、自分がこのままだと本当に心の病気になってしまう。
(ていうか身体は完全に悲鳴をあげていたから、半分くらいはもう心の病だった)
 
どうにかしないといけない。
どうしたらいいのかわからない。
 
そんな時、心配した友達が会いに来てくれて、簡単な認知行動療法をした。
それの最後に行き着いたところも、同じだったことを思い出した。

 
「1人になりたくない」
 
 
ようやく、戻ってきたんだ。
戻ってこれたというべきか?
 
 
ここだった。
ずーっとここだった。
 
 
心の重石が少し動いた。
 
その重石が動いて見えたものがあった。


まばゆい光・・・かと思いきや。。。

 
 
「1人になりたくない」と思っているのに、

1人になることに不安で寂しくて怯えているのに。
 
 
 
 
「1人じゃないとダメ」
 
「1人で生きていかないといけない」
 
 
 
 
見つけてホッとしたと同時に、やっかいな思い込みが新たに出現した。

 
ノートに書いた言葉。
 
 
「あーもうめんどくさいなぁ・・・」


つづく。ハズ。

(ちなみに備忘録なのでリアルタイムじゃなくて先週くらいの話)
  
     
気分や感情に波があるのは当たり前なんだけど、
どうもこれまでの傾向を見ると、満月の2~3日前から満月にかけて、
一瞬にして気分がMAXまで落ち込みやすい模様。

まぁそう思ってるからそうなるのかもしれないし、満月のエネルギーとか
おかしなこと言い出して、どん引きする人もいるかもしれないが、
とにかく満月のせいだということにする。


「驚くほど穏やかだ→」とか言いながら、気分が一気に下がった25日の満月。

その2,3日前からも、せっかく霧が晴れたかと思ってたのに、どうもスッキリしない。

他人の言動がいちいち気に障るし、何かというと否定的な気分になる。
気持ちを切り替えようとしても、何かに囚われてモヤモヤする。

ノートに書き出してみても、色々なblogを読んでも、ワークをしてみても、
朝日を浴びても、何度深呼吸をしても、身体を動かしても、すぐにまた、
ネガティブな世界に入っていこうとする。

ネガティブになってもいいいんだーって思っても、
「そんなのダメだ。」「なっていいわけない。」って思って、
でも気持ちが切り替えれなくて、どうしていいのか分からない。

土曜日も、友達と遊んでいっぱいおしゃべりして、いっぱい笑って、
友達の子どもに沢山癒されて、とっても楽しかった。

その後はマッサージ行って、身体もスッキリ。

したはずなのに。
1人になって、途端に落ち込む。

頭で考えきれなくなって、ノートにつらつら書き出した。

どうして、私は楽しもうとしないの?出来ないの?
どうして、私は前に進めないの?
どうして、私はただ、無条件に愛せないの?
どうして、私は自分の価値を信じられないの?
どうして、私は幸せを感じられないの?
どうして、私は自分に、エゴにこんなに振り回されるの?

どうして、どうして。
ぐるぐるぐるぐる・・・・。
涙はボロボロ。


・・・


突然。

それは本当に突然だった。


キレた。


誰が?


-私が。


誰に?


-私に。


突然、以前母親に感じた時のような(→)、ものすごい怒りがこみ上げた。
気がついたら、泣きながら、ノートに書き殴ってた。

以下、一部抜粋。
自己満足のための記録なので、長いし意味不明だし、いよいよ頭がおかしくなったんだと思ってください。(あまりにも汚すぎる言葉は修正してマス。。。)

いい加減にして。
馬鹿なんじゃないの?

私が私をいじめてどうするのよ?
何でそうやっていつも他人に、周りに振り回されるのよ?
他人じゃないでしょう?自分でしょう。

あんた(私)が勝手に恐れて、不足を感じて、すぐに「でも」とか「だって」とか
言い訳しているからでしょう。

もう限界。

他人にすぐ軸をうつすあんた(私)も、
すぐに周りのせいにするあんた(私)も、
何度言っても、今ある幸せを信じられないあんた(私)も、
何度言っても、自分を好きになろうとしないあんた(私)も、
何度行っても、自分を信じようとしないあんた(私)も、

もう限界。

いらない。
こんな私はもういらない。

何が嫌なの?
何にこだわっているの?
何を恐れてるの?

いつまでも、優しい言葉をかけてもらえるなんて思わないで。
いつまでも、「頑張ったね。」とか言ってもらえるって思わないで。

いつまでも、グチグチしていないで。
いつまでも、闇に目を向けていないで。
ちゃんと光をみて。

いつまでも、拗ねるのはやめなさい。
いつまでも、被害者ぶるのはやめなさい。
いつまでも、不足をみるのはやめなさい。
いつまでも、過去をみるのはやめなさい。
いつまでも、未来を心配するのはやめなさい。

泣いてもいい。怒ってもいい。不安になってもいい。傷ついたって思ってもいい。
私、可哀想って思ってもいい。相手のことを憎くなって殺したくなってもいい。

だけど、それにいつまでもしがみつくのはやめなさい。
いつまでもそこに甘えるのはやめなさい。

そこにいつまでもい続けたって意味がない。何にもない。
ただ、暗闇に、悲しみや怒りの淵に沈みこんでいくだけ。

何が楽しいの?

馬鹿なんじゃないの?

結局いろんなことが怖くなって余計にビクビクするだけじゃない。

いつまで、こんな馬鹿げたことを続けるの。

もっと自分を信じなさい。
もっと愛を素直に感じなさい。
もっと自分にあるものを感じなさい。喜びなさい。
もっと自分を楽しみなさい。

いい加減、腹をくくりなさい。
小さなことに、いちいち振り回されるな。

誰かが、何かが、助けてくれるなんて思わないの。
私は、私しか助けられないの。
私は、私しか満たしてあげられないの。
私は、私しか幸せにしてあげられないの。

前に進みなさい。
抵抗してももう何もない。
これ以上、苦しむことを選択するのは、辞めなさい。

変わりなさい。
楽になりなさい。



私が、私にキレた・・・。
ぶちギレてた。本気で怒ってた。

いつまでも、外に求める私に。
いつまでも、外に期待する私に。
いつまでも、何かが救ってくれると思っていることに。
いつまでも、闇に目を向ける自分に。
いつまでも、「ない」と不足と不安を感じることに。
いつまでも、自分を認めない自分に。
変わりたいとかいながら、変わらないで済むことを期待する自分に。
周りが何かしてくれる、変わってくれるって思う自分に。
いつまでも、恐れている自分に。
いつまでも、甘えている自分に。
いつまでも、自分の足で立とうとしない自分に。
いつまでも、相手の反応をビクビク伺っている自分に。
どうして、こんなに頑張っているのに何も変わらないのって、駄々をこねて泣く自分に。
自分で自分を鎖で縛って身動き取れなくしている自分に。

私はもう、イライラして、うんざりして、怒っていた。

そこに居続けることを望んでいるのは、おまえ(私)じゃないかと。
何もせず、ただ愛して欲しいと叫んでいるだけじゃないかと。


何かにとり憑かれたような時間だった。

書き終わると、涙はすっかり乾いて、
すっきりしたような、放心したような、不思議な感覚だった。


何だかねぇ。。
私って、大変だねぇ。。


いやぁ・・・それにしてもひどい罵声だったなぁ。
何度、バカじゃないのって言われただろう。
何度、いっぺん死んできたら?って言われただろう。

オクチには気をつけましょう。。。



  
     
母への怒りを自覚して、独り気が狂いそうになるまで怒って、その気持ちを、自分を受け止めてから2週間。


驚くほど穏やかだ。


かつて。

朝目覚めるたびに不安で苦しくて、
胸やみぞおちが息苦しくてドキドキしていた。

見えそうで見えない光に、毎日もがいてた。


あの頃の自分に教えてあげたい。褒めてあげたい。


よく頑張ったと。
よく耐えたと。
よく諦めなかったと。


別に日常は、仕事が落ち着いてめでたいけれど、収入激減してさてどうしようかってくらいで、何も変わらない。


正直、光でもさして、ものすごい奇跡でも起きてくれるのかと思ったけど、残念ながらそれはただの妄想だった。


笑い転げるような毎日でもない。

かかってくる照会電話相手に、何度も殺意を抱く。

気分が下がっている日は、同じところを何度も何度もぐるぐる悩む。

落ち込むし、苦しくなる。


でも。

それでも、日々がとても穏やかで、幸せだと。


だから、大丈夫だと。
そのまま進んでいけば、きっと大丈夫だと。

あの頃の自分を励ましたい。


ようやく、楽しいとか、嬉しいとか、幸せだって感じることが出来るようになれると。

楽しいってことがなんなのか。
嬉しいってことがなんなのか。
幸せだって思うことがなんなのか。

今まで雪のように一瞬で消えていっていた感情が、
必ず小さな罪悪感が付いてきていた感情が、

少しずつ、純粋に確かなものとして感じることが出来るようになってくると。


誰かを好きって思っていいんだ。
何かを好きって思っていいんだ。

逆に、好きじゃないって思ってもいいんだ。
嫌いだって、ムカつくって思ってもいいんだ。


いい感情も、嫌な感情も、どっちも持っていい。

どっちも本当。


それでいい。


  
     
朝、blogにした「存在価値→」がないでもそうだし、呆れるまでの自己肯定感の欠如、自己卑下、無意味な自己顕示欲、沢山の自らを追い詰める思い込み。

その時その時に自分を守るために作り上げてきた思い込みが、もはや不要となった今でも残り続け、昇華されず、習慣となり性格となった。


昇華せず自分の中に貯め続け、「思い込み」の枠の中で生きることを選択し続けたのは、私だった。


しかし、その思い込みを作るきっかけは、思い込みがどんどん強化された原因は、


間違いなく、私の母親だ。


母の日に。
あえて、私は自分のために、自己満足の記録を残すことにした。

※果てしなく長く、ただの自己満足で、読んでいても気分がいいものではないので、母親が大好きな人とか母親に無条件に愛されている人は見ないほうがいいです。気分を害するだけです。


これを読む誰かにどれだけ非難されても、
どれだけ呆れられても、
誰かを失うことになっても、
天罰が下されたとしても、


それでも、私の母親はおかしいと思う。
どうしようもなく許せなくて、どうしようも憎くて、悲しくて、



もはや、怒りを通り越して消えて欲しい。



そう思うことは半端ない罪悪感だった。

私は何てひどい、最低な人間なんだろう。
沢山のことをしてくれたはずなのに。
たった一人の母親なのに。
どうして素直に感謝できないんだろう。
どうして素直にお母さん、大好きと思えないんだろう。


私は母親に愛されなかったのか?

それは何度も考えた。
そう思ったこともあった。

やりたかったバレエを習わせてくれた。
毎日作ってくれるご飯はいつも美味しかった。
お弁当もいつも彩り豊かに作ってくれた。
誕生日やクリスマスはプレゼントを買ってくれたりお祝いしてくれた。
必要なものは必要な分だけちゃんと与えてくれた。
叩かれたり、無視されたり、突然怒られたり、ひどいことを言われたことも
あったけど、世にあるような虐待をされた訳でない。

母親は母親の気持ちややり方で、私を愛していたのだと思う。

私は愛されてなかった訳ではない。

ただ、母親の愛し方が、私が求めている形ではなかった。
私を自由に、無条件に認めてくれるものではなかっただけで、
母親の愛は確かにあった。


だから、

「それでも私は母が大切だし。」
「普段は私のために色々してくれているんだし。」
「たった一人の母親なんだし。」
「もっと大切にしなきゃ。」
「感謝しなきゃ。」

と思ってた。

なのに、母に怒りや嫌悪感を感じる。
時には殺意すら感じる。


自分はおかしいんだと思ってた。

そう思うたびに罪悪感に押しつぶされた。
罪悪感がさらに私を責めて、存在価値がないことを裏付けてくれた。


母親のことが大好きで、愛している自分は、確かにいる。
だからこそ、母親を許せない、大嫌いだと思う自分が許せなかった。


でも、もう降参。

私が勝手に母親に振り回されているんだけど、
私が勝手に母親に怒っているんだけど、
私が勝手に母親を嫌っているんだけど、


私は、母親が嫌いで、許せなくて、時に死んで欲しいとすら思っている。


それでもいいことにした。

それはGWの最終日。

「父→」に思いを馳せた後、ホットヨガ&岩盤浴に行くことにした。

ホットヨガですっきりして、岩盤浴の前に休憩していた。
頭の中がまだぐるぐるしていて、休みがてらノートに母への思いを書き連ねていた。

その時、表現しがたいくらいの怒りがこみ上げた。
怒りのあまりに泣き叫びそうで、そうは言ってもホットヨガでノーメイク汗だくで、
それぞれがダラ~っと休んでる公共の場で泣き叫ぶわけにも行かず。

とうとう私は気が狂ったんだ・・・って思いながら、
必死に叫びそうになるのを抑えて、気がついたらノートは真っ黒。

絶対、傍からみたらヤバイ人だっただろうな・・・。


でも、ものすごくスッキリした。

ああ、別に実際母親を殺すわけじゃないし、あの人が私にしてきたことはひどかったことは事実だし。
それに対して、怒ったり、嫌いだって思うのは当然じゃないかと。

怒りを否定して、嫌いなくせに嫌いじゃないって思い込もうとして、
一生懸命、頼まれてもないのに母親の気持ちを必死に汲み取ろうとして、
嫌われないように、もっと愛してもらおうとしてるから、苦しいんだ。


母親の愛は確かにあった。今もあると思う。

でも、今の私はその愛をまだ純粋に、素直に受け取れない。


まだ、母親を許せないし、嫌いだし、まだ私の被害者意識は根深い。

でも、いつか溶けるかもしれない。
私が母親に持っている沢山の「思い込み」を手放したとき、
心から母親を愛して、感謝できるときがくるかもしれない。
来ないかもしれない。

今は、どっちでもいい。


やっと、母親から自由になるためのスタートに立てた。


私の母の日は、母からの独立記念日。


  
     
最近、色々書き連ねながら、いつも同じところにたどり着く。



「存在する価値がない。」



これまでの自分の辛かったこと、悲しかったこと、ムカついたこと、イライラしたこと、何でか分からないけどいつも思い出されること。

ひとつずつひも解いて、その時の感情を感じてみると、
どれにも怒りや悲しさや寂しさや孤独があって、そして最後に、


「私は存在する価値がないんだ。」


という思い込みがある。

存在する価値がないと思っているから、悲しくて、寂しくなるのか、
悲しくて、寂しいから存在する価値がないと思うのか、
どっちから生まれてきたのか分からないけど。


色々本やblogを読んで、
「自分を愛する」とか、「自分を大切にする」とか、「自分を認める」とか・・・。
そんなことがどれにもあって、それが大事だってことはよく分かった。

でもそれってどうするんだろう、どんな感じなんだろうって全然分からない。

自分のことが「好き」とか「嫌い」とか、
「自分はこれでいい」とか、「こんな自分は嫌だ」とか、
さっぱり分からなかった。

本やblogでは色々な方法を教えてくれて、出来そうだなって思うものを色々やった。
私に向いているもの、向いていないもの、色々あった。

色んなことに気がついた。
自分が、自分が思っている以上に色々なものを抱えていて、
色々なものが見えなくなっていた。
自分で自分をがんじがらめにしていた。

「自分のことを愛すること」の意味が少しずつ分かってきた。
でも、今ひとつ実感が出来ない。

いつしか、「自分を愛さなければならない。」という思いに縛られて、
それが分からない、出来ない自分にイライラしだして。

「~でなければならない。」って思い込みを手放したいのに、
手放すためには「~でなければならない。」って何だそりゃ。


ぐるぐるぐるぐる。
頭が痛くなってくる。
抑えきれなくて涙が出てくる。

それでも色々考えて、色々なblogをさまよって、ふとしたところで気がついた。


「私は存在する価値がない。」


って思っていると。


存在する価値がないのに、自分を愛するも何もなかろうと。
存在する価値がないのに、自分が好きとか嫌いとかないだろう。
存在する価値がないのに、何がしたい、したくないもないだろう。

存在する価値がない人間に、そんなこと考える必要がない。


よく死ななかったなーって思った。
まぁ自分が「存在する価値がない。」と思い込んでることに気がついてないんだから、死ぬわけないんだけど。

思い返してみると、「存在価値がない」と無意識に思いながら、何とか自分の「存在価値」を見出したくて、必死だった。


「存在する価値がない。」


それはとても悲しい、苦しい思い込みだった。
でも、一方で何とも都合のいい思い込みだった。

何かあっても、「どうせ存在価値がないから。」という理由で、
拗ねて、いじけて、落ち込んで、色々と人のせいにして、
自分の思い込みを強化して、色々なことを勝手に抱え込んで生きてきた。

しかし、気がついてしまった。

このまま、「だって存在する価値ないし。」といじけて生きていくこともできるが、
それはちっとも楽しくない。
いくらなんでもそこまで「ドM」ではない。


本当に私は存在する価値がないのか。
そんなことはないだろう。

友達、恋人、仕事、家族。
たくさんの人たちがいる。

それなのに、「良し」と出来ない自分。

ややこしいヤツだ。
メンドクサイ女だ。

まぁでもしょうがないじゃんね。
そう思ってるんだから。


でも、何だかあと少しな気もしている。




  
     
今日、のんびり過ごしている中で、昨日友達とも色々話したことも含めて、母親のこと整理してみようかなー、やだなー、どうでもいいなーとうだうだしながら、いつものようにあちこちのBlogを眺めていたら、ふと「父」のことがひっかかった。

母の存在、母との関係、母への感情。
それらが、色々なことの枷になっていると思っているが、
果たして「父」はどうなんだろうか、と。

今の父。
病気になった時の父。
学生の時の父。
子供の時の父。

思っている以上に沢山の父が出てきた。
ああ、そうだった。父さんはこうだったわー・・・。
かつての父を忘れていたことに驚いた。


昔の父は、自営業をしていた。
「社長」と呼ばれる父を誇らしかった。

でも一方で、怖かった。
声が大きくて嫌だった。
語り始めると長くて嫌だった。
いつもえらそうな感じで嫌だった。
無口で何考えているのか分からなくて嫌だった。
態度がでかくて、恥ずかしかった。

でも事業がうまくいかなくなって、
脳腫瘍になって身体も思うようにならなくなって、
そして母親に罵倒される父をみて、
お父さんは可哀想だと思うようになった。

脳腫瘍のせいなのか性格がすっかり穏やかになり、
また、母親とのぶつかり合いのなかで、語った父の言葉で、
父の優しさと大きさに気づくようになった。

だから、私は父との間に何の問題もないと思っていた。

でも、今振り返って、思い返して、掘り下げて。。。


そうでもなかった。

父を非難し、父に怒り、父を哀れんでいる私がいた。

私が県外に行きたかたの反対するばっかりで、認めてくれなかった。
私のことにちっとも関心を示してくれなかった。
どうして、そんなに自分に甘いのか。
どうして、もっとお金のこと真剣に考えないのか。
どうして、そもそもあんな人と結婚したのか。
どうして、もっと母親に責任もって関わらないのか。
もっと相手して、ちゃんとお母さん怒ってよ。
どうして、もっと自分の思っていることを、表現しないの?
どうして、いつも何もしゃべらないの?
どうして、人生楽しそうに過ごせないの?
自分の人生、自分で落とし前つけて。
私を巻き込まないで。
というか、あの人(母親)何とかしてよ。


すんごい被害者意識だなー。
しかし、すんごい怒ってんなー。
出てくる、出てくる。

私は父を、思った以上に怒っていて、
思った以上に哀れんでいた。


私は父を、

「怖い」
「自分勝手」
「いつも偉そう」
「何も分かってくれない」
「何も分かろうとしてくれない」
「自分に甘い」
「だらしがない」

って、勝手に決め付けて、非難し、怒り、哀れんでいた。

だけど、父は生きたいように生きてきて、仕事もしたいようにして、美味しいものもたくさん食べて、飲んで、そのおかげで私は美味しいものを沢山食べに連れて行ってもらったし、大学まで行かせてもらえた。

結果的に今は身体も仕事もお金も思うように行かなくなっているけど、それは父が生きたいように生きてきた結果だし、冷たい言い方だけど、自業自得なんだと思う。

そして、それは父自身が、誰に言われなくてもよく分かっていると思う。
私の父は、とても賢い人だから。

不器用で、口下手で、色々な事がうまく出来なくて、自分にどこか甘い。
でも、優しくて、穏やかで、愛情深くて、私をとても愛してくれている。

そのことに、いつまでも気がつかなかった、見ようとしなかった。
そこにある「思い込み」はなんだったんだろうか。



って、分かってるけど。

重たいなぁ~・・・。


  
     
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